翻訳と辞書 |
繆培南[ぼく ばいなん]
繆 培南(ぼく ばいなん)は中華民国の軍人。粤軍(広東軍)出身で、国民革命軍の有力指揮官となる。字は経成。別号は育群。 == 事跡 ==
=== 粤軍での台頭 === 清末は学問分野で順調に進学していたが、1912年(民国元年)に広東(黄埔)陸軍小学第6期に入学した。同期には、葉挺、張発奎、李漢魂がいる。1914年(民国3年)冬に卒業し、葉・李らとともに武昌陸軍第2予備学堂に進学した。1916年(民国5年)冬、卒業し、翌年に保定陸軍軍官学校に入り、第6期歩兵科で学ぶ。 1918年(民国7年)に卒業し、当初は山東省で北京政府の軍務に就いた。しかし1920年(民国9年)10月、孫文(孫中山)が樹立した広州軍政府に転じるために広東省に戻る。翌年、繆は粤軍第1師に配属され、また、孫が非常大総統となった際に設立された警衛団に選抜されている。以後、陳炯明討伐の東征等で活躍し、1925年(民国14年)9月、国民革命軍第4軍(粤軍第1師を改編したもの)軍部上校副官に任ぜられた。11月には、第4軍第12師副官長となっている。 1926年(民国15年)5月、国民革命軍第4軍第12師第35団団長に任ぜられ、北伐に参加した。翌年1月、軍功により第12師副師長に昇進し、師長の任務を代理している。同年7月には第12師師長に正式に任命され、9月には第4軍副軍長兼第12師師長に昇進した。そして12月には、第4軍軍長に任命され、広州政治分会臨時軍事委員会主席団構成員も兼ねている。1927年(民国16年)11月、張発奎が李済深から広東の統治権を奪おうとしてクーデターを起こすと、繆は張に加担した。しかし、李は蒋介石の支援を受け、李を支持する陳銘枢らの部隊に繆は大敗を喫してしまう。結局、繆は蒋に事実上降伏し、再び北伐に参加した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「繆培南」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|