|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
繆 大亨 (きゅう たいきょう、? - 1363年 ) は、元末の軍人。定遠 (現在の安徽省定遠県) の人。朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。 ==生涯== はじめは元の義兵軍を率いていた。 1354年7月、濠を攻めていたが勝てず、元軍は敗れた。張知院と共に2万の兵で横澗山に篭った。朱元璋は夜襲で横澗山を攻めることを考えた。朱元璋の命を受けた花雲の夜襲により、繆大亨は息子と共に敗走したが、散り散りになった兵を集め、再編して迎撃の態勢をとった。朱元璋は説得のために叔貞を使者に送った。叔貞の説得に繆大亨は朱元璋に降伏した。〔『明史 』第1 本紀第1 太祖1によれば、2万の兵を得たと記されている。〕 数々の戦いに参加し、多くの功績を上げて、元帥に抜擢された。 1357年10月〔『明史紀事本末』巻2 平定東南、『続資治通鑑』巻214によれば、1357年9月と記されている。〕、揚州を攻略し、青軍元帥・張明鑒を降した。戦いの前、繆大亨は朱元璋に「賊は飢餓に困り、食糧の掠奪に奔れば、これを治めるのは難しくなります。彼らの勇猛さを用いて、我が軍に加えるべきです」と言った。これを容れた朱元璋は繆大亨に速やかに攻めるよう命じた。張明鑒を降し、数万の兵、軍馬2千余を得た。その後、張明鑒の将校の妻子を応天府に悉く送った。 1360年3月、淮海翼元帥府が江南分樞密院に改められ、繆大亨は同僉樞密院事となり、揚州、鎮江を統括した。善政を行い、民衆はこれを喜んだ。 1363年に亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「繆大亨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|