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繆荃孫 ( リダイレクト:繆セン孫 ) : ウィキペディア日本語版 | 繆セン孫[ぼく せんそん]
繆 荃孫(ぼく せんそん)は、清末から中華民国にかけての教育家・蔵書家。目録学・金石学の大家であり、中国における図書館学の先鞭をつけた人でもある。字は菼之または筱珊、号は芸風老人。
==生涯== 幼時より学問を始め、11歳で五経を修めた。17歳の時、太平天国軍が江陰に進入したため、継母とともに淮安に逃れ、麗正書院で文字学・訓詁学・音韻学を学んだ。21歳の時に成都に移り、そこでは文学・史学・文字考訂を学んだ。24歳の時、挙人となる。張之洞の幕友となり、『書目答問』の編集に深く関わった。 1876年、進士となって翰林院編修の地位を授かり、以後十数年校勘作業に当たる。1888年には南菁書院院長、1891年には灤源書院院長となった。1894年には南京鐘山書院院長、常州龍城書院院長となり、1901年には江楚編訳局総裁となった。1902年、鐘山書院が江南高等学堂に改組されると学堂監督となった。両江総督府は師範学校の建設を決定し、繆荃孫を総長に任命し、繆の指揮で三江師範学堂が設立された。さらに徐乃昌・柳詒徴ら七教授とともに日本に学校制度の視察に赴いた。三江師範学堂は東京大学に倣ったもので、南京国子監の旧跡に建設された。その後両江師範学堂、南京高等師範学校と改称され、現在の南京大学のもととなった。1907年、江南図書館(現在の南京図書館)の建設計画に参加し、総裁となった。1909年、北京京師図書館(現在の中国国家図書館)の創設にも関わり、正監督となった。1914年には清史の編纂に招かれ、清史稿のうち儒林伝、文苑伝、循良伝、孝友伝、隠逸伝を著した。
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