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織田 久長(おだ ひさなが、生没年不詳)は、室町時代の武将。父は織田勝久〔『信長公記』の系図〕又は織田常松〔『清洲町史』の織田氏推定系図〕・織田常竹〔『前野家文書』「武功夜話」、前野家文書を元に作成した瀧喜義著『尾州織田興亡史 』に掲載された系図〕。兄弟に織田敏貞〔『信長公記』の系図〕、織田敏仁〔『信長公記』の系図〕、織田常丈〔『信長公記』の系図〕織田教長?、織田郷広?、織田良信?。正室は朝倉教景女〔大龍山洞雲寺蔵の「朝倉系図」の朝倉教景の娘に「織田弾正忠久長室、敏定母」とある〕。子に織田敏定、、織田常寛、織田達広。養子に織田敏仁。官位は従五位下大和守、近江守〔『天童織田家譜』〕、兵庫助、通称は弾正左衛門〔『寛政重修諸家譜編』〕。法名は常祐。清洲三奉行の1つ藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされる。。尾張楽田城主。 横山住雄によると、朝倉教景の娘に「織田弾正忠久長室」とあり、「弾正忠」の官位が見えることから、織田良信の父であるというが、現時点では「弾正忠久長」による発給文書がないため推測の域を出ない。 嘉吉3年(1443年)、妙興寺に禁制を出している「織田大和守」とされ、長禄4年(1460年)頃、織田三河守、織田豊後守とともに又守護代の地位にあったとされる。 嘉吉3年(1443年)11月22日の「北野神社文書」によると。久長は守護代織田勘解由左衛門尉久広の指示を受けている。 文安5年(1448年)、『妙興寺文書』の「天祥庵規式案」によると条文に「織田兵庫助久長」とある〔新編一宮町史〕。 永正元年(1504年)に尾張丹羽郡に楽田城を築城し、居城としたとされる。また「織田宝岩祐居士」の肖像画は織田久長とも。 == 脚注 == ひさなか 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田久長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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