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織田信孝 : ミニ英和和英辞書
織田信孝[おだ のぶたか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おり]
 【名詞】 1. weave 2. weaving 3. woven item
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 

織田信孝 : ウィキペディア日本語版
織田信孝[おだ のぶたか]

織田 信孝(おだ のぶたか / のぶのり〔『織田系図』には「のぶのり」と読みがある。〕)は、安土桃山時代武将大名織田氏の一族。伊勢国中部を支配する豪族神戸氏を継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか / のぶのり)とも称する。
== 生涯 ==

=== 信長存命中 ===
永禄元年(1558年)、織田信長の三男として生まれた。母は側室華屋院〔伊勢鹿伏兎氏庶流あるいは尾張千秋氏の所縁か。また『一豊公御武功記』によると二宮一楽斎が信孝母方祖父とされている。〕。
幼名は三七(3月7日生まれだったためとも)と言われる。実は次兄・信雄より20日先に生まれたが、母の身分が低く、また信長に報告するのが遅かったため、三男とされたと言うのが通説。
しかし母の実家である坂氏は北伊勢随一の豪族関氏の庶流鹿伏兎氏の庶流にあたり、けっして信雄生母・生駒吉乃の実家・生駒氏に見劣りする出自ではない。信雄は嫡男・信忠の同母弟であり、吉乃を正室とするならば、信雄と信孝の関係は嫡流と庶流との差があると言えるが、吉乃が正室であるということを示す史料はなく、出生には不明な点が多い。
誕生を永禄元年(1558年)4月4日とする説もある。生まれた場所は母方の大叔父と言われる尾張衆(津島衆)の岡本良勝の屋敷とされている。
永禄11年(1568年)、信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛の養子となり、具盛が信長によって隠居させられた後の元亀3年(1572年)に神戸氏を継ぐ。養子入りに際しては幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣から岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門・立木・河村以下の侍が信孝付きとして付けられた〔『勢州軍記』〕。関氏一族の関・峯・国府・鹿伏兎氏ら諸氏が与力とされ、このほか峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水・野々懸彦之進・吉川九兵衛・岡本氏・長尾氏・神戸氏・安井氏・可児氏・林氏などの名が家臣として見られる。相続後は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、神戸は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。
元亀3年(1572年)1月、兄の信忠、信雄と共に岐阜城において元服し、加冠役は柴田勝家が務めた〔 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.204〕。
天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけて、長島一向一揆平定戦、越前一向一揆平定戦に参加する。伊勢長島での戦には北畠信雄とともに参陣、大崎城を攻撃した。
天正4年(1576年)の三瀬の変、天正5年(1577年)の紀州征伐にも参加し〔 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.205〕、同年11月、従五位下・侍従に叙位・任官。天正6年(1578年)には荒木村重討伐戦(有岡城の戦い)にも出陣している〔。行政官としての活動もあり、天正8年(1580年)には村井貞勝を補佐して在京し禁裏との交渉にあたった。同年7月、本願寺教如が退去するに際して誓詞を交わすため、信長を京に迎えている。この頃に丹波国丹後国を所領として与えられたようであり丹波衆・丹後衆に出した中国攻めの触書が存在する。同時に伊勢では神戸城の拡張工事に着手、五層の天守や多数のを持つ近世城郭を完成させた。甲斐武田氏との戦いにおいても、木曾義昌武田勝頼から離反するに際して仲介を行うなどの活躍を見せている。
天正10年(1582年)に四国攻めの総司令官に任ぜられ〔四国攻めは信孝の強い希望によって実現したともいう。神宮文庫所蔵文書には「三七様連々お望み候四国へ」との文言のある文書が存在する。〕、5月11日から大坂で出撃準備をする。所領北伊勢の河曲・鈴鹿の二郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を動員、牢人衆を召し抱え、伊賀・甲賀・雑賀の他国衆も集めて遠征軍を組織した。副将には織田氏の宿老・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを付された。なお、四国攻めにあたって、信孝は三好康長の養子になることが決定され、神戸具盛は再度神戸氏の当主扱いになったようである。しかし、養子の話は破談となり、この際に織田氏に復して新たに一家を興した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「織田信孝」の詳細全文を読む




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