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織田信忠 : ミニ英和和英辞書
織田信忠[おだ のぶただ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おり]
 【名詞】 1. weave 2. weaving 3. woven item
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

織田信忠 : ウィキペディア日本語版
織田信忠[おだ のぶただ]

織田 信忠(おだ のぶただ)は、安土桃山時代武将大名織田信長嫡男で、信長の生前に家督を譲られた。
== 生涯 ==

=== 少年期 ===
弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。実母は生駒吉乃(久庵慶珠〔天正5年(1577年)6月の崇福寺宛信忠書状〕〔横山住雄『織田信長の尾張時代』p.33-p.35、p.73-p.75〕)。乳母は慈徳院。なお濃姫が織田信忠を養子としたという説もある(勢州軍記)。幼名は奇妙丸元服してはじめ勘九郎信重(のぶしげ)を名乗り、のちに信忠と改める。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄五女・松姫と婚約が成立したという。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀3年(1572年)に信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。以後、武田氏では勝頼末期に織田氏との関係改善が試みられるものの(甲江和与)、武田・織田間の和睦は成立していない。
元亀3年(1572年)1月に元服したと「勢州軍記」等にあるが、天正元年(1573年)4月1日付『兼見卿記』、また同年6月18日付の「朝河文書」でも、まだ幼名の「奇妙」で呼ばれており、諱の「信重」の名乗りが確認できるのは、同年7月が初見である〔大県神社文書〕『信長公記』でも、同年8月12日付けの江北攻めで出陣した記録が「奇妙」から「勘九郎」に変化しており、若干遅めだが17歳~19歳頃が元服の時期と推察される。以来、信長に従って石山合戦、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月~9月の伊勢長島攻めと各地を転戦する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「織田信忠」の詳細全文を読む




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