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織田 信正(おだ のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。織田信長の庶長子。幼名、於勝丸。官職は帯刀、大隅守、主膳正、侍従。 母は家臣の原田直政の妹・直子と言われている。正室は織田信広(信長の庶兄)の娘恭姫、側室は村井貞雲の娘。子には信衡(のぶひら)、的寿の二人の息子がいると伝わる。 通常、信長の長男は織田信忠とされるが、この人物の存在が事実とすれば次男ということになる。ただし信正の存在は、江戸時代末期に編纂された『系図纂要』などを根拠にしており、江戸幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』などには記載されていない。信長・信正生存時の上質史料にも一切登場しないため、その実在を疑問視されており、一般的には信長の子として存在を認められていない。 ==概略== 一次史料からは確認することが一切できない人物であるため、その生涯は江戸末期以降編纂の、著しく信憑性に乏しいものからしかわからない。 『系図纂要』によれば、天文23年5月5日(1554年6月4日)、尾張那古野城で誕生したが、村井貞勝に養育され、一時期村井氏を称した。永禄9年(1566年)に元服して帯刀重勝(しげかつ)と名乗り、同年3月に母とともに古渡城に移り城主となる。永禄11年(1568年)、信長上洛の際に初陣を果たす。初陣に際して信長は「直指人心見性成仏」の旗を贈り祝ったという。信正は期待に違わず六角義賢の観音寺城の戦いで戦功をあらわし、足利義昭から感状と太刀一振りを賜る。 天正2年(1574年)、従五位下大隅守に叙任される。この叙任は伊勢長島攻めで討ち死にした織田信広の家を継いでのものとも言われる(前述の通り信広の娘を正室に迎えているので婿養子とも考えられる)。翌天正3年(1575年)には従五位上主膳正に昇任し、6月、正親町天皇から菊桐紋と珍器を拝領した。さらに天正5年(1577年)には従四位下侍従に昇進、公家成を果たしている。同年には織田信孝も侍従に叙任されており、信長の息子として存在感があったことが伺える。 天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、前田玄以とともに二条城にあった。天正13年(1585年)に剃髪して見性寺を開基した。これ以降、見性軒と号し、病と称して出仕せず同寺に居住した。天正16年(1588年)には信長と信忠を始め、本能寺の変で討ち死にした家臣らの七回忌法要を同寺にて営んだ。信正の処遇については豊臣秀吉も相応の配慮をしたようで、天正19年(1591年)に秀吉より見性寺に寺地、寺領を賜っている。この寺領は徳川家康からも安堵された。 正保4年(1647年)11月、94歳という高齢で没する。墓は京都の見性寺。法名は見性寺正誉英厳了盛。ただし、叙任の記録などは、朝廷、公家などの記録にも残っておらず、事実であるとは確認できない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田信正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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