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織田 信興(おだ のぶおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。織田信秀の7男。信与(信與(のぶとも))とも。織田信長の弟。 == 生涯 == 兄・織田信長に早くから従う。永禄8年(1565年)、信長の命で滝川一益と共に出兵し、弥富服部党の当主・服部友貞不在の時を狙って攻め立て勝利する。鯏浦城・小木江城(古木江城。現在の愛西市)を築き、以後は小木江城に在城し、服部党と西に控える長島を牽制する役目を担った。 元亀元年(1570年)11月、信長が石山本願寺などの信長包囲網にさらされると、信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれた。このとき、信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、近隣の桑名城にいた滝川一益も一揆勢の侵攻により篭城していたため、援軍を送ることができなかった。信興は孤立無援の中で奮戦し、6日間耐えたが落城し、信興は天守(別伝には城外に撃って出た、とも)で自害した、と伝わる〔西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P155〕〔西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P171〕〔西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P231〕〔池上裕子『織田信長』P75〕〔岡田正人『織田信長総合事典』P35〕〔岡田正人『織田信長総合事典』P123〕〔阿部猛『戦国人名事典』P215〕〔長島より一揆蜂起せしめ、取りかかり、日を追って攻め申し候、すでに城内へ攻め込みしなり、一揆の手にかかり候ては御無念と思食し、御天主へ御上り候て、霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり『信長公記』〕〔『織田家雑録』〕。なお、この時80人余りの家臣も信興に殉じている。 信頼の厚い弟・信興を殺された信長の一揆衆に対する憎悪は高まり、これが天正2年(1574年)の長島一向一揆衆の大虐殺にまでつながった。 織田一族に彦七郎信定がおり、信興と同じ彦七郎を仮名としている事から信興の子と推定されている〔岡田正人『織田信長総合事典』P124〕〔『薬師寺文書』〕〔『大通寺文書』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田信興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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