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織田 信貞(おだ のぶさだ、天正2年(1574年) - 寛永元年6月6日(1624年7月21日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。織田信長の九男。母は土方雄久の娘・土方氏。ただし、『寛政重修諸家譜』に該当人物はいない。一説には青山氏ともいう。幼名は人、通称は藤四郎。官位は従五位下雅楽助、左京亮。 == 生涯 == 1582年、父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の内に1000石の所領を与えられた。 1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加したため、戦後に改易された。なお、『寛政重修諸家譜』では、関ヶ原の合戦に際し、兄信高と相談し、東軍を支持したものの、本戦に間に合わず、凱旋中の徳川家康に拝謁したと説明している。これは作為と考えられる。 1614年からの大坂の陣に徳川方として従軍し、功を挙げた。おそらく浪人中のことであり、この功績で再び所領を与えられたと推測される。1624年6月6日、51歳で死去した。墓地は京都・大徳寺塔頭総見院にある。なお、「織田信貞像」(岐阜市歴史博物館蔵)は、子孫の尾張藩士・織田貞辰が描かせたものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田信貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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