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織田 敏信(おだ としのぶ、文正元年(1466年) - 永正14年1月26日(1517年2月16日?))は、戦国時代の武将。管領・斯波氏の家臣。法名は清巌、常清、常也、常巴〔『公卿補任』〕。通称は左馬助〔『寛政重修諸家譜』、『公卿補任』〕、伊勢守〔『寛政重修諸家譜』、『公卿補任』〕、大和守〔『寛政重修諸家譜』、『公卿補任』〕。備後守 『信長公記』によると、尾張下四郡を治めた守護代の「織田大和守家」当主の清洲城主・織田大和守敏定の嫡男とされ、尾張上四群を治めた「織田伊勢守家」当主の岩倉城主・織田信安の父とされるが、しかし、出自についてははっきりせず、定かではない。 文明17年(1485年)9月8日、室町時代の歌人である万里集九が江戸城に太田道灌を訪ねる中途、尾張春日井郡にある清洲城の織田敏信邸に立寄り、織田敏信の許で犬追物を見物して詩を作ったといわれる。 延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐のため、敏信は父とされる織田敏定とともに尾張守護斯波義寛に従軍したという(延徳の乱)〔谷口克広著『尾張・織田一族』〕。 また明応2年(1493年)、再び守護・斯波義寛に従い、織田敏信は上洛して京に滞在するなど各地で活躍したという(『蔭涼軒日録』)。 没年について岩倉市の龍潭寺にある敏信の位牌には永正14年(1517年)1月26日没。戒名「龍潭寺殿清巌常世大居士」〔龍潭寺位牌。『岩倉市史』〕。『前野家文書』「武功夜話」では明応4年(1495年)、船田合戦で討死とも〔滝喜義著『尾州織田興亡史』〕。後に娘は織田信長の父織田信秀の側室となったといわれる。 == 異説 == *『信長公記』では、織田敏定の嫡男としているが、万里集九の詩集『梅花無尽蔵』の「八日、尾之清州城備後敏信第、見犬追物」には敏信の容姿について「犬追物常に談ずるなり、織田敏信 長き髯(ほおひげ)あり、この日余を挽き留む・・・」とあり、新井喜久夫の『織田信長辞典』では「・・・文明十七年当時、敏信はすでに「長髯」を蓄えていたが、父とされる敏定はこの年三十六歳で、敏信が嫡子としても二十歳前後ということになり・・・」と親子関係は無理があると指摘し、兄弟か従兄弟なら説明が付くと異説を唱えてる。 *「清巌」という法名を持つことから、『信長公記』にある織田信長の曽祖父にあたる「西巌」とされる清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」(勝幡織田氏)の祖織田良信の父という説がある〔角川文庫『信長公記』。著者の一人奥野高廣による〕。また一説にこの両者を同一人物という説がある。『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』によると、「この両者は同世代であり、初め斯波義良のときに、良信と名乗り、斯波義敏の守護復帰後、偏諱を受け、敏信に改名した」のではないかと説を著者の横山住雄は立てている。但し守護職の継承は「義敏①-松王丸①-義廉①-義敏②-義廉②-松王丸②(元服時に義良、家督継承時に義寛と改名)-義達」の順であり、家督にしても「義敏①-松王丸①-義廉①-義敏②-義廉②-義敏③-義寛②(松王丸・義良)-義達」の順で継承しているため、義良(松王丸・義寛)が「義良」と名乗っていた時期(文明4年12月~文明17年4月)の後に、義敏が守護職・家督に復帰した事実は無い(義敏が守護職にあったのは文正元年までで、また家督も文明17年に「義寛」と改名した義良に譲り、自身は出家して「道海」と称している)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田敏信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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