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織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代の武将・キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主、官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。公卿補任においては本姓で平秀信(たいら の ひでのぶ)と記載されている。洗礼名はペトロ。 == 生涯 == === 本能寺の変・清洲会議 === 天正8年(1580年)、織田信忠の長子として生まれた。母・徳寿院は塩川長満の娘、森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも〔『西山家文言覚書秘伝録』〕。なお、母が松姫の場合、武田信玄の外孫という事になる。『美濃国古蹟考』によると、和田孫太夫女であるという。高野山悉地院過去帳は母方の祖母を進藤氏としており、進藤氏の娘の可能性もある。 幼名は三法師。 天正10年(1582年)の本能寺の変の際、父・信忠の居城岐阜城に在城していたが、前田玄以、長谷川嘉竹あるいは木下某(小山木下氏)に保護されて清洲城へと避難した。この折、二条城におり信忠から末期に行光の短刀を与えられたという逸話がある。同年、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続、直轄領として近江国坂田郡3万石を得る。代官は堀秀政が務めた。この際の決定で安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝によって岐阜城に留め置かれ、これを発端として秀吉と信孝は干戈を交えることとなる。信孝が敗れて降伏した後は、一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り、織田家の家督代行となった織田信雄の後見を受けた。 天正12年(1584年)には丹羽長秀の坂本城に移った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田秀信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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