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続 守言(しょく しゅげん、生没年不詳)は、7世紀後半(飛鳥時代後期)に唐から倭(日本)へ帰化した渡来人。持統朝の音博士。 == 略歴 == 660年、唐によって百済が滅亡したが、百済遺臣の鬼室福信らは国家再興のため反乱を起こし、唐人の続守言らを補えた。鬼室福信らは倭国に対し、人質となっていた百済王子余豊璋の帰国と、軍事支援を求めた。倭国はこれに応じて豊璋を送り出し、福信はその交換として続守言らを倭に送ったという〔『日本書紀』巻26 斉明7年(661年)十一月戊戌(7日)条「日本世記云。十一月。福信所獲唐人績守言等至于筑紫」。〕。筑紫に送られた続守言らは、天智天皇2年(663年)2月頃、倭の都へ護送された〔『日本書紀』巻27 天智天皇2年(663年)二月是月条「佐平福信上送唐俘續守言等」。〕。彼ら俘虜100余名は近江国に住まわされ、その後美濃国不破・方県両郡に移された。 続守言はその後、同じく渡来唐人であった薩弘恪とともに朝廷に仕え、持統天皇3年(689年)には稲を賜り〔『日本書紀』巻30 持統3年(689年)六月庚子(19日)条「賜大唐續守言。薩弘恪等稻。各有差」。〕、同5年(691年)9月には銀20両を賜っている〔『日本書紀』巻30 持統5年(691年)九月壬申(4日)条「賜音博士大唐續守言。薩弘恪。書博士百濟末士善信銀人廿両」。〕。『日本書紀』にはこのとき続守言・薩弘恪は音博士であったと記されている。これは儒教の経書を読む際に、当時の唐語(漢音)による音読法を教えるための役職であった(詳細は''音道''を参照)。翌年12月にも水田4町を賜っている〔『日本書紀』巻30 持統6年(692年)十二月甲戌(14日)条「賜音博士續守言。薩弘恪水田人四町」。〕。このほか、飛鳥浄御原令の選定や、国史の編纂事業にも関わったと考えられている(後述)。没年は不明であるが、文武4年(700年)の大宝律令の選定奉勅者に薩弘恪の名前があるのに続守言の名は無いこと、国史編纂に関わっていたにもかかわらず続守言自身の来倭記事に不確定な記述があることから、持統6年(692年)12月14日から700年6月17日までの間に引退もしくは死亡したものとみられる〔森1999、212頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「続守言」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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