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羅 佩金(ら はいきん)は清末民初の軍人。滇軍(雲南軍、雲南派)の指導者の1人。護国戦争(第三革命)において、護国軍の将軍の1人として活躍した人物でもある。字は熔軒、榕軒。原籍は四川省華陽県(現在の双流県)。 == 事跡 == === 清末の事跡 === 祖父の羅瑞図は翰林、父の羅森は挙人という家柄である。羅佩金は、1898年(光緒24年)に秀才となり、1903年(光緒29年)に昆明高等学堂に入学した。しかし、時の政治を論じたことを理由として退学処分となり、祖父の教え子だった両広総督岑春煊を頼る。 1904年(光緒30年)、日本に留学し、東京振武学校に入学した。翌年、楊振鴻・李根源の紹介により孫文と対面し、同年8月、中国同盟会の結成と同時にこれに加入した。10月、楊・李らとともに、革命派の雑誌である『雲南』雑誌を編集した。1909年(宣統元年)、陸軍士官学校を卒業し、帰国した。 帰国後、当初は岑春煊の紹介で、広西省の竜済光に任用してもらい、随営学堂総弁となった。しかし、まもなく竜から革命派の一味として警戒されたため、羅は雲南へ戻った。雲南に戻ると、新軍第19鎮随営学堂監督となり、雲南陸軍講武堂歩兵科教官も兼任した。後に、雲南督練処参議官兼陸軍小学堂総弁となる。さらに1911年(宣統3年)、第19鎮第39協第74標標統に任命された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羅佩金」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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