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羅憲 : ウィキペディア日本語版
羅憲[らけん]

羅 憲〔羅憲の事績は『蜀書』巻41・霍峻伝が引く『襄陽記』と、『晋書』巻57・羅憲伝とに見える。ここでは『襄陽記』に拠る。〕(ら けん、? - 270年)は、中国三国時代から西晋にかけての軍人。蜀漢・晋に仕えた。令則荊州襄陽郡の出身。父は羅蒙。兄は羅式。子は羅襲。甥は羅尚(羅式の子)。
==正史の事跡==
父は乱を避けて蜀に移住し、広漢太守となった。
羅憲は13歳にして文章を良く書き、早くに学問で名を知られた。譙周に師事し、門人からは子貢の如しと称された。「性は厳正、倦むことなく士を求め、財産を軽んじて施すことを好み、利殖を営まなかった(性格は極めて真面目で、積極的に才能のある人物を求め、財産を他人に快く与え、私腹を肥やす真似はしなかった。)」と評される。蜀に仕え、劉禅の即位時に太子舍人となり、ついで庶子・尚書吏部郎に移った。宣信校尉としてに使いすること二度、呉人から称賛された。
当時、黄皓が蜀の実権を握っていた。しかし羅憲は黄皓に阿らなかったため、恨みを買って巴東太守に左遷され、巴東を都督していた閻宇の副将となった。が蜀を討つと閻宇が召還されたため、羅憲が永安を守った。成都が陥落すると永安城でも擾動が起こり、城を捨てて逃げる官吏が多発した。羅憲は「成都が混乱している」と言った者一人を斬り、民を安んじた。劉禅が降伏したことを知ると、配下の将兵を伴い都亭に赴き、三日間喪に服した。
景元4年(263年)、呉は蜀の敗れた事を知ると、将軍の盛憲を派遣して西上させ、援軍を送ると見せかけて羅憲を攻撃しようとした。羅憲は「漢(蜀漢)の滅亡は呉の命運に関わることであるのに、呉は我が難を救わず、利益を求め盟約を違えようとする。既に漢は滅び、呉も永くは保たれないであろう。どうして呉に降ることができようか」と言って永安城を堅守した。兵士たちがこの状況に動揺していたため、鎧を繕い、城壁を修復し、兵糧を集め、節義を説いて激励したところ、みな命令に従った。翌5年(264年)、呉は魏の鍾会鄧艾が死んだ事を知り、さらに征西軍を派遣し、歩協に永安城を包囲させた。羅憲は魏の陳騫に使者を送る一方、歩協の軍を大いに破った。
孫休は、陸抗らに兵3万を与えて永安城をさらに囲ませた。およそ半年の間、魏の援軍は至らず、また城内の者の大半が病に罹った。ある者が羅憲に脱出の策を説いたが、羅憲は「人主とは民が仰ぎ見る者であり、危急に臨んで民をよく安んぜず捨て去ることは、君子のなすところではない」として容れなかった。司馬昭胡烈を援軍として派遣し、陸抗らを退却させた。司馬昭は羅憲に旧職を委ね、淩江将軍に任命し、萬年亭侯に封じた。折りしも武陵郡の四県が呉に叛いたため、羅憲は武陵太守・巴東監軍となった。
泰始元年(265年)に西鄂県侯に封ぜられた。翌2年(266年)に入朝し、冠軍将軍・仮節に昇進した。泰始4年(268年)、司馬炎の詔に応じて陳寿を始め、常忌・杜軫・寿良・高軌・呂雅・許国・費恭・諸葛京・陳裕ら蜀漢の旧臣を推挙した。羅憲が推挙した者たちは、みな西晋に採り立てられた。また任地に還り、呉の巫城を攻略し、呉を討つ策を進言した。泰始6年(270年)に死去し、烈侯と諡された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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