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美しい日本の私―その序説 : ミニ英和和英辞書
美しい日本の私―その序説[うつくしいにほんのわたし――そのじょせつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 
美しい : [うつくしい]
 【形容詞】 1. beautiful 2. lovely 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日本 : [にっぽん, にほん]
 【名詞】 1. Japan 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
本の : [ほんの]
  1. (adj-pn) (uk) mere 2. only 3. just 
: [わたし, し]
  1. (n,adj-no) I 2. myself 3. private affairs 
: [ついで]
 【名詞】 1. (uk) opportunity 2. occasion 
序説 : [じょせつ]
 【名詞】 1. introduction 
: [せつ]
  1. (n,n-suf) theory 

美しい日本の私―その序説 : ウィキペディア日本語版
美しい日本の私―その序説[うつくしいにほんのわたし――そのじょせつ]

美しい日本の私―その序説』(うつくしいにほんのわたし――そのじょせつ)は、川端康成評論1968年(昭和43年)12月10日、日本人として初のノーベル文学賞を授与された川端(当時69歳)が、12月12日ストックホルムスウェーデン・アカデミーで行われた授賞記念講演において演説した芸術観・文化論である〔『実録川端康成』(読売新聞文化部、1969年7月)〕〔 助川徳是「『美しい日本の私――その序説』私注」(福岡女子大学、1969年9月)〕。
日本人の美の心を端的に語った『美しい日本の私―その序説』は〔、世界に向かい、広く日本の古典文学・芸術を紹介し、その根底をなす伝統的な日本人の心性思想の特質、西欧と異なる死生観などを説いた日本文化論であると同時に、現代の日本文学者・川端自身の心根にも、その伝統が脈々と受け継がれていることを宣言した記念碑的な作品である〔大久保喬樹『日本文化論の系譜―「武士道」から「『甘え』の構造」まで』(中公新書、2003年)〕〔 大久保喬樹『川端康成―美しい日本の私(ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房、2004年)〕〔『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)〕。
講演の全文は同年12月17日の朝日新聞ほか各紙に報道され、翌年の1969年(昭和44年)3月16日に、旧仮名遣い講談社現代新書より英訳付きで単行本刊行された。文庫版も同社より刊行されている。翻訳版はエドワード・G・サイデンステッカー(英題:Japan, the Beautiful, and Myself)をはじめ、各国で行われている。
== 講演の背景・概要 ==
1968年(昭和43年)12月10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で出席し、翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演を日本語で行なった〔〔掲載写真 pp.90-91『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)〕。この『美しい日本の私―その序説』と題された講演では、道元明恵西行良寛一休などの和歌が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。なお、川端のノーベル文学賞受賞への道のりには、1961年(昭和36年)に三島由紀夫英文で推薦文を書くなど〔『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)に所収。〕、英訳者・サイデンステッカーをはじめ、こうした川端文学の海外への紹介者たちの役割も小さくはなかった〔。
川端は、ストックホルムへ出発する前から講演の草稿執筆に取りかかり、12月3日に羽田を発つ時点で半分ほど書き上げたが、講演当日12日早朝もまだ執筆中で、宿泊ホテルの部屋を訪ねた石浜恒夫に、「やっと調子が出始めたところですよ」と述べて落ち着きはらっていたという〔。そのため昼に同時通訳をしなければならないエドワード・G・サイデンステッカーは翻訳を短い時間で苦心し、居合わせたコペンハーゲン大学仏教学者・藤吉慈海の助言を受けながら事なきを得た〔〔原稿が一枚書き上げられる度に、エドワード・G・サイデンステッカーが、短歌などの日本古典の引用に大変な苦労をしながら、一枚ごと、その場で訳していったという。〕。川端は3日間ほとんど徹夜で書き上げ、「作家はこれぐらいの徹夜はできるもんだ」と、その出来に満足し上機嫌だったという〔平山三男「作家案内―川端康成:戦後川端文学の意味――分裂する二つの時計」(『再婚者・弓浦市』)(講談社文芸文庫、1994年)〕。
『美しい日本の私―その序説』は、道元などの和歌を引用解釈しながら、〈雪月花〉に象徴される日本美の伝統、こまやかな美意識、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙などの世界観のありようが、流麗な文章でとらえている。有無相通じる融道無磁の〈〉の心が、〈一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせる〉というの秘密を成立させている趣旨に、スウェーデン・アカデミーの聴衆は深い感銘を受けた〔。文章内に川端の付けた小見出しはないが、朝日新聞では紙面に講演録を記載するにあたり、「雪月花に美の感動」、「『無』は心の宇宙」、「美の糧『源氏物語』」というおおまかな三段階の小見出しを付けている〔川端康成「美しい日本の私―その序説」(朝日新聞 1968年11月17日号に掲載)〕〔。
なお、『美しい日本の私―その序説』の延長線上に位置し、未熟ではあるが、その具体的事例・実践的なものとして措定できる論が、翌年1969年(昭和44年)5月にハワイ大学で講演発表した『美の存在と発見』である〔小菅健一「『美の存在と発見』論――小説論としての可能性と限界」(山梨英和短期大学紀要、1995年12月)〕。『美の存在と発見』〔川端康成「美の存在と発見」(毎日新聞 1969年5月3日、21日 - 24日に連載)〕では主として『源氏物語』に触れられており、〈もののあはれ〉論が述べられている〔。
26年後の1994年(平成6年)に日本人で二人目のノーベル文学賞を授与された大江健三郎はその思想的背景から、この『美しい日本の私―その序説』を意識し、川端の姿勢に対して皮肉を込めた『あいまいな日本の私』という演題で、「英語」による講演(のち日本語訳発表)を行なった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「美しい日本の私―その序説」の詳細全文を読む




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