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美保関の合戦(みほのせきのがっせん)は、1569年10月(永禄12年9月)に山中幸盛ら率いる尼子再興軍と、尼子再興軍に叛旗を翻した隠岐為清ら率いる軍との間に起こった戦いである。戦いの場所が美保関(現在の現在の島根県松江市美保関町)で行われたことから、美保関の合戦と呼ばれる〔『雲陽軍実記』は第四巻、『陰徳太平記』は巻四十三、『太閤記』は巻十九 山中鹿助伝に記載。〕。 == 合戦までの経緯 == 1569年(永禄12年)、尼子再興を目指す尼子勝久ら尼子再興軍は、隠岐為清の協力を得て隠岐から出雲へ上陸、出雲の諸城を次々と攻略し、ほぼ出雲のすべてを手中に収めんとするまでに勢力を伸張した。その後、出雲の拠点である月山富田城の攻略に手間取るも、それを阻止しようとする石見の毛利軍、服部左兵衛らの軍勢を原手郡で撃破する(原手合戦)。 同年10月(永禄12年9月)、尼子再興軍の出雲上陸にも協力し、また原手合戦においても味方した隠岐為清が、突如叛旗を翻す。為清が謀叛を起こした理由は定かではないが〔その理由については諸説ある。下記の補足、隠岐為清の叛乱の謎を参照のこと。〕、山中幸盛、立原久綱ら尼子再興軍は、これを鎮圧するため兵を率い美保関へと進軍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「美保関の合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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