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美唄鉄道線(びばいてつどうせん)は、北海道美唄市の美唄駅から三菱美唄炭鉱の事業所が存在した常盤台駅間を結んでいた三菱鉱業運営の鉄道路線である。1972年(昭和47年)に廃止された。 == 概要 == 4110形タンク機関車の活躍する路線として鉄道ファンの間で有名だった美唄鉄道は、石狩石炭株式会社(社長浅野総一郎)〔明治39年設立本社東京『日本全国諸会社役員録. 明治40年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕が1906年(明治39年)に敷設免許を取得した石炭輸送のための専用鉄道が前身である。この専用鉄道は美唄 - 沼貝(後の美唄炭山)間に計画され、1908年(明治41年)夏頃には路盤工事を終えていたが、諸般の事情により〔美唄市史 昭和45年7月発行 P442-444。〕〔既に1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて黒柳金二郎が周辺21鉱区の試掘権を得ていたが、採掘せずに放置していた。その場所へ後から石狩石炭が進出してきたため鉱区係争が発生し、黒柳は隣接する我路等に鉱区を所有する中央大学出身の弁護士、飯田延太郎を弁護人に立てて争った。この結果石狩石炭側は敗訴して、権利を主張する鉱区の多くを失うことになった。一方勝訴した黒柳も採掘に到る資金が無く、4年に渡る訴訟費用の捻出にも苦慮する有様であったため、弁護費用の返済を含めて飯田へ鉱区一切を売却することとなった。なお、石狩石炭は多くの鉱区を失ったが、なおも滝の沢等の大きな鉱区を有し、その開発を急ぐと同時に鉄道敷設の再開を申請した。〕石狩石炭は沿線の鉱区の多くを失ったことから工事は中断、さらに1911年(明治44年)の洪水で路盤や石垣の多くが流出する被害を受け、そのまま竣功期限を迎えた。 その後石狩石炭は残った鉱区を開発するために再度専用鉄道敷設願いを提出するが、沿線の有力鉱区の所有者となった飯田延太郎や、山林や共同牧場の所有者である桜井良三他数名が、石狩石炭の占有を恐れて同区間に軽便鉄道敷設免許を申請したため、競願する形となった石狩石炭は新たに軽便鉄道敷設免許(1067mm軌間、蒸気動力)を申請、1913年(大正2年)にこれを取得した〔美唄市史。〕〔飯田は炭層調査によって有望鉱区と確認すると、飯田美唄炭鉱として1913年(大正2年)11月開坑、向こう8年間の石炭販売権を担保に三菱合資会社に資金援助を要請し、また石狩石炭が専用鉄道の再敷設を申請すると、石炭輸送に支障が出るのを恐れて対抗する形で軽便鉄道敷設願いを提出。付近に農場を所有していて自己の土地の開発を目論む桜井良三も、飯田を援護する形で軽便鉄道願いを提出した。後に石狩石炭が自社独占の「専用鉄道」から一般営業が義務付けられた軽便鉄道法に基づく私鉄である「軽便鉄道」に申請を切り替えたこと、既に40余万円(当時の企業物価指数を1.0とすると現在の金額にしてその約650倍の25億円前後)もの巨額な投資を行なっていることを考慮して石狩石炭側に免許された。〕。これは先の専用鉄道を改良の上完成して旅客・貨物運輸に使用するもので、当初は運転管理を鉄道省(国鉄)に委託する計画であったが、開業間近になって鉄道省より7010形蒸気機関車、三等客車、貨車等の払下げを受けられたことから、自社での運転管理に変更した。1914年(大正3年)11月5日に美唄 - 沼貝(後の美唄炭山)間の一般運輸営業を開始した。 ところが石狩石炭は、開業翌年の1915年(大正4年)8月31日付で美唄軽便鉄道の施設・車両・用地等すべてと所有する鉱区の一部を手放し、美唄炭鉱を所有する飯田延太郎に売却した〔美唄市史。〕〔石狩石炭は自社の所有する鉱区からは採炭に至らず、当時の当鉄道は飯田美唄炭鉱からの石炭輸送が主要貨物となってしまっていた。三菱は飯田に働きかけて買収させたとされる。〕。さらに約1か月後に飯田は三菱合資会社(のちの三菱鉱業)が9月29日に設立した美唄鉄道株式会社に鉄道の一切を売却〔売却の理由については諸説が有るが、三菱鉱業社史 三菱鉱業セメント編 によれば、知人の伝聞として「手宮、室蘭などの道内主要積出港に自前の貯炭場が無いため、今後の展開に望みが持てなかったから」といった趣旨の内容を述べたとされる。〕、10月11日より美唄鉄道としての営業が始まった〔『私鉄史ハンドブック』等では「9月29日譲渡」とあるも、美唄鉄道の会社登記届では「(10月)10日に鉄道全部を引き継ぎ、11日より弊社に於て営業」とあり、売買契約締結日と実務上の引継日の相違か。なお、譲渡認可は9月27日付。〕。 さらに炭鉱の奥部開発の進展に伴って三菱鉱業が使用していた美唄炭山 - 北二ノ沢間の専用鉄道を1924年(大正13年)に買収して地方鉄道に変更、このうち美唄炭山 - 北一ノ沢(常盤台に改称)間の保安設備等を改良して一般運輸営業を開始した。北一ノ沢 - 北二ノ沢間については休坑中の二ノ沢坑の再開坑まで設備を改良せずに未開業としたが、結局再開の目途が立たず、1937年(昭和12年)に起業廃止となった。 1950年(昭和25年)、三菱鉱業は企業再建整備法に基づく整備計画によって金属鉱山部門を分離して太平鉱業(のちの三菱金属鉱業)とした上、残る炭鉱部門の効率化を図ることになり、同社美唄礦業所と不可分の美唄鉄道を吸収して三菱鉱業美唄鉄道事務所とした。炭鉱の隆盛により輸送量も増加したが、1955年(昭和30年)に石炭鉱業合理化臨時措置法が施行されると閉山や合理化が始まった。三菱鉱業美唄礦業所も縮小・合理化が進められ、1965年(昭和40年)には美唄炭礦株式会社として三菱鉱業より分離した。さらに、二度にわたる災害に見舞われた常盤坑を1970年(昭和45年)7月に閉鎖し、竪砿のみの単独操業となったことから経営が悪化、事業の効率化のため1971年(昭和46年)7月に同資本系列の三菱大夕張炭礦に吸収合併して同社美唄鉱業所となったが、翌1972年(昭和47年)4月には閉山、美唄鉄道線も5月31日限りで廃止された〔。 当初は1873年(明治6年)製の7010形機関車を初めとする鉄道省払下げの中古車両で運輸を開始した美唄鉄道だが、輸送量の増加に伴って国鉄4110形や9600形と同形の蒸気機関車を自社発注し、国鉄払下げの9200形などと共に使用した。旅客についても1935年(昭和10年)に半鋼製ボギー客車を新造し、輸送力増強に努めた。同資本系列の三菱大夕張鉄道と共に戦後もずっと蒸気機関車牽引の混合列車であったが、1965年(昭和40年)に国鉄気動車の払下げを受け、朝夕の一往復の混合列車を残して客貨分離を行った。炭鉱の経営が悪化した1970年(昭和45年)には気動車を廃止して朝夕1往復の混合列車に逆戻りし、昼間の旅客輸送は同社バス(三菱鉱業バス、のちの美鉄バス)に切り換えた。なお、鉄道廃止後に専業となったバス部門も、その後幾多の変遷を経て2002年(平成14年)に廃業した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三菱鉱業美唄鉄道線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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