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群司次郎正 : ミニ英和和英辞書
群司次郎正[ただし, せい, しょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

群司次郎正 ( リダイレクト:郡司次郎正 ) : ウィキペディア日本語版
郡司次郎正[ぐんじ じろうまさ]

群司 次郎正(ぐんじ じろうまさ〔''群司次郎正''デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク、2012年7月3日閲覧。〕〔''群司次郎正''国立国会図書館、2012年7月3日閲覧。〕〔''群司次郎正''国立情報学研究所、2012年7月3日閲覧。〕、1905年11月27日 - 1973年1月10日)は、日本の小説家作詞家である〔〔武蔵野次郎春陽堂書店、2012年7月3日閲覧。〕。郡司 次郎正(ぐんじ じろまさ)とも表記する〔。1931年(昭和6年)に発表された『侍ニッポン』で知られ、同作は多数映画化・リメイクされた。同作の主題歌(作詞西條八十、作曲松平信博)もヒットしたが、同作を除く、自らの「小説主題歌」を作詞した。本名郡司 次郎(ぐんじ じろう)〔〔。
== 来歴・人物 ==
1905年(明治38年)11月27日群馬県佐波郡伊勢崎町(現伊勢崎市)に生まれる〔〔〔''群司次郎正''、茨城県、2012年7月3日閲覧。〕。やがて茨城県東茨城郡大貫町舟渡(現在の大洗町大貫町舟渡)に移り育つ。旧制・茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業する〔。上京し、本郷の映画俳優学校に学ぶ。新劇俳優を志望し、四代目 河原崎長十郎今日出海村山知義らが1925年(大正14年)に結成した劇団「心座」に参加している〔。「心座」第3回公演、フリードリヒ・ヘッベルの戯曲『ユーディット』を村山が演出した際には、出演もしている。
1930年(昭和5年)1月、小説『ミス・ニツポン』を書き下ろして「世界の動き社」から出版、装幀は村山知義が手がけた〔。つづいて『ミスター・ニッポン』、『マダム・ニッポン』を出版〔、これらはいずれも翌1931年(昭和6年)に映画化された。村田実監督の『ミスター・ニッポン』前・後篇が日活太秦撮影所で、高見貞衛監督の『マダム・ニッポン』が帝国キネマでそれぞれ製作され、前者は同年3月20日、後者は4月1日に公開された。『ミス・ニツポン』も同年、小説の発表順を前後して映画化された。
同年4月、25歳で執筆した『侍ニッポン』が雑誌『大衆文学』5月号誌上に掲載されるや、日活太秦撮影所はさっそくこれを企画採用、伊藤大輔が脚本を執筆し、大河内伝次郎を主演に伊藤が監督した。同作はサイレント映画で、前篇が同年4月8日、後篇が4月15日に公開された。小説『侍ニッポン』は、「黒船来の巻」、「安政大獄の巻」、「桜田門の巻」、「坂下門の巻」、「文久三年の巻」の連作である〔。同作をテーマにした同名の歌謡曲が徳山璉によって歌われ、一世を風靡、同曲の影響ははるか40年後、1970年代のテレビアニメ侍ジャイアンツ』(1973年 - 1974年)の主人公の定番鼻歌〔『侍ジャイアンツ』では、メロディが同一でアレンジまで似ているが、歌詞を一部変更(「人を斬る」⇒「球を打つ」、「侍」⇒「野球屋」)して歌われた。〕にまで及ぼした。また同タイトルのインパクトの強さは、朱里エイコ『SAMURAI NIPPON』(作詞マルコ・ブルーノ、補作詞エイコ&バーバラ、作編曲ピーター・ストーン、1978年)、あるいは1980年代シブがき隊『サムライ・ニッポン』(作詞売野雅勇後藤次利、1984年)にも遠く影響を及ぼした。
いっぽう、戦前当時の映画は無声時代であり、フィルムに音声トラックは存在しなかったが、主題歌があり、また、「小説主題歌」というものが流行った。そのうち数曲を郡司自身が作詞している。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、群司は、大宅壮一北原武夫らとともに陸軍報道班員として徴用され、スマトラジャワなどに派遣された。帰国後疎開し、戦後は、大洗町の涸沼川河畔で船宿を営み暮らした〔。1948年(昭和23年)12月には、『じやぱん物語』を書き下ろし、1957年(昭和32年)7月には、『侍ニッポン』の続篇を書いた〔〔。
1973年(昭和48年)1月10日、午後10時23分、大洗町の自宅で食道がんのため死去した〔〔〔『出版年鑑 1974』、p.174.〕。満67歳没。没後の同年3月、講談社が刊行した『大衆文学大系 23 群司次郎正・片岡鐵兵・濱本浩・北村小松・藤澤桓夫』に、片岡鐵兵濱本浩北村小松藤澤桓夫の作品とともに、『侍ニッポン』が掲載された〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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