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義済堂(ぎせいどう)とは、以下に示した継承関係を持つ2つの株式会社である。 ; 1873年(明治6年)11月に開業1875年(明治8年)6月に創業された染色・縫製業等を主な事業としていた株式会社。 創業時資本金は10万円(非会社組織)。1899年(明治32年)10月に合資会社となった後、1919年(大正8年)6月に株式会社組織となる。黎明期には金融業(質屋や現在でいう債権回収会社に相当する業務)および岩国産の和紙(岩国紙)の卸業なども手掛けた。 2005年(平成17年)6月1日付で事業の一部を同名の新会社に継承させた。自らは「ジー・エス・ディー岩国」に改称の上、資産売却などを進め、2008年(平成20年)2月4日開催の株主総会で解散を決議、同年5月22日に山口地方裁判所岩国支部より特別清算手続開始決定を受けた。 ; 上記会社から、事業の一部を継承する為に、2005年(平成17年)3月25日付で設立された株式会社。 継承した事業は、繊維関連卸業務の営業部門と国内紳士服メーカー向けスーツの縫製を担当していた中国・上海市の子会社(当時)。 上記2つの会社は、法人としては別の存在であるが、会社名称(商号)や事業としては継承関係にある為、本記事においては一括して取り扱う。 == 起源 == 義済堂の起源は、1873年(明治6年)11月20日に大阪府の商人である井上重太郎により開店した、義成堂にまで遡る。このときの業務内容は、旧藩内の諸産物取扱(具体的には、藩政時代は専売制だった岩国紙などの取扱)および質屋であった〔 。 義成堂が開店した当時、廃藩置県により毛利藩の支藩扱いだった時代の旧岩国藩自身の負債(7万円以上)を継承する事になった吉川家において、負債の返済財源および士族(旧家臣)や村方への既存の貸付金の回収、新規の困窮救済の貸付願の取り扱いをどうするかが大きな問題となっていた〔。 これらの問題を解決する方策の一つとして、廃藩置県前の明治2年6月1日(1869年7月9日)から廃藩置県の間まで開設されていた博済場(領内所産物の総合的な商品取引所)にて旧岩国藩が与えていた、かつての専売取扱権である産品売り捌き権を、井上重太郎に与え、新規の貸付願に対応する業務も併せあたらせたのが、義成堂の成り立ちである〔。(成り立ちについては、かつての家臣であった士族への生計維持の為の就業講習所として設立されたとの説もある) その後、1875年(明治8年)6月に、既存の貸付金の整理回収および、なおも収まらぬ困窮救済の貸付願への対応にあたる岩国用達所の事務負荷軽減などを目的に、吉川家の家職を * 本局(東京本邸) * 支局(岩国用達所) * 別局(既存の貸付金の整理回収および貸付願への対応) の三局に分割した〔。 この別局に井上重太郎の経営する義成堂を統合したのが、義済堂である〔。 なお、義済堂を創業する際の資本金である10万円および創業に要する費用としての着手金1万円は、旧岩国藩主であった吉川家(当時の当主は吉川経健)が拠出し、初代堂長には、三須成懋が就任した〔。なお、堂長に就任した三須成懋は、旧岩国藩の蔵元内に設けられていた節倹局(慶応3年12月(1867年12月もしくは1868年1月)に設置)の局長だった経歴を持つ〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「義済堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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