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義空(ぎくう、生没年不詳)は、平安時代前期唐から渡来した禅僧。 == 経歴 == 中国杭州塩官県にあった海昌院の斉安国師に師事。承和年間、皇太后橘嘉智子が恵萼(えがく)を使者として唐に送って唐の禅僧を招聘しようとした。恵萼は弟子とともに五台山を訪れた〔円仁『入唐求法巡礼行記』会昌元年9月7日条〕後に斉安を招聘しようとするが、彼は義空を推挙した。恵萼は承和9年(842年)にいったん帰国するが、この時は義空は同行しなかった〔なお、恵萼が一旦日本に帰国した直後に、斉安が没している。〕。その後、恵萼は再度唐を訪れて義空を説得し、承和14年(847年)の恵萼の帰国に同道する形で来日した〔『元亨釈書』に義空の来日を斉衡初年と記すが、斉衡に改元される5年前の(唐)大中3年(849年/日本の嘉祥2年)に義空と親しかった唐の徐公直・徐公祐兄弟らから日本の義空に充てた書状が残されており(『高野雑筆集』下巻所収「唐人書簡」)、この事実と矛盾する。斉衡初年は義空が唐に戻った年であった可能性が高い(田中、2012年、P157)。〕。恵萼が日本に戻っている間に、江南においても会昌の廃仏の影響が及び、義空に日本に行くことを促す背景になったとも考えられている。 来日した義空は東寺西院に住したが、その後嘉智子が創建した檀林寺に移ってその開基となった。仏道を問う者は多かったというが、禅宗自体は当時の人々からは理解されずに不振、また当時の日本仏教界の戒律の乱れも彼を失望させた〔卍元師蛮『本朝高僧伝』巻19義空伝賛・円珍『仏説観普賢菩薩行法経記』巻下・修六念法など〕。更に会昌の廃仏が終息して唐の仏教界が再興に向かい始めたこともあり、彼は斉衡年間(854年-857年)には滞日数年で唐に戻った。後に恵萼が再び唐に渡った際、その事績を日本国首伝禅宗記として碑に刻み、日本に送り京の羅城門脇に建てたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「義空」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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