|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 羽 : [わ, はね] 1. (n-suf) counter for birds 2. counter for rabbits ・ 仁 : [にん, じん] (n) kernel
羽仁 進(はに すすむ、1928年10月10日 - )は日本の映画監督。父は歴史家で元参議院議員の羽仁五郎、母は婦人運動家の羽仁説子。母方の祖父母は自由学園創立者の羽仁吉一と羽仁もと子、父方の祖父は第四十銀行創立者の森宗作。 ==来歴・人物== 祖母の羽仁もと子が創立した自由学園を1947年に卒業後、1年間の共同通信社記者生活を経て、1949年、岩波映画製作所の設立に加わる。最初は岩波写真文庫の編集などに携わっていたが、1952年に厚生省(現・厚生労働省)がスポンサーとなった『生活と水』で監督デビューする。 1954年の撮った『教室の子供たち』(1955年)で、授業中の子供達の姿を生き生きとフィルムにおさめて。引き続き、1956年に制作した記録映画『絵を描く子どもたち』は、当時の記録映画としては珍しく劇場公開された。1958年には法隆寺の姿を収めた『法隆寺』も制作した。 1960年にはドキュメンタリーの手法を多用した長編劇映画の『不良少年』を撮り、新境地を開拓した。プロの俳優は使わず、非行経験のある少年を集めてその経験を即興的に取り入れていきながら撮ったもので、その後のスタイルを決定付けた。この作品はキネマ旬報ベストテンの首位に選ばれた。 その後に独立し、また劇映画に転じ、1965年の『ブワナ・トシの歌』では、渥美清演ずる主人公がアフリカ奥地にプレハブ住宅を造りに行く姿を描いた。また、1968年の寺山修司の脚本を得た『初恋・地獄編』(主演:石井くに子、高橋章夫)も類似の手法でATGから配給された。1970年代半ば以降は、再びドキュメンタリーに戻った。 その後、アフリカ、オーストラリアなどに海外ロケを30年近く続け、野生動物を撮りつづけた。その集大成として『動物に学ぶ-生きる』制作した他、反核ドキュメンタリーも制作した。 独自の教育論で、各地での講演活動や執筆活動を行っている。 元妻は女優の左幸子。1959年に結婚、1977年に離婚。離婚の原因は、羽仁が左幸子の実妹の額村喜美子と浮気したことである。喜美子は羽仁のマネージャーでもあり、羽仁のアフリカ長期撮影旅行に同行する中での出来事であった。羽仁はのちに喜美子と再婚した。同じく左幸子の実妹で女優の左時枝と混同されることがあるが、喜美子は四女、時枝は五女であり、別人である。女優、タレント、エッセイストの羽仁未央(1964年 - 2014年)は、左幸子との間の一人娘。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羽仁進」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|