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羽柴氏(はしばし/はじばうじ)は、日本の戦国大名・天下人の家系及びその名字である。創始者は羽柴秀吉。 == 概要 == 本姓ははじめ平氏、秀吉の関白就任時には藤原氏に改め、その後新しい氏を創始して豊臣氏となった。これは秀吉とその近親者たちの名字でもあるとともに、称号として秀吉に臣従する大名の一部に賜与された。 秀吉はもともと織田信長の家臣で、はじめ名字は「木下」であった。もっともこれも氏素性も確かではない秀吉の本来の名字ではなく、妻ねねの兄杉原家定が母方の名字「木下」に改称したのを借りたものであるともいわれる。秀吉が歴史に姿を現すのは、信長が美濃の土豪坪内利定に与えた知行安堵状の添状(永禄8年(1565年)11月2日付)に「木下藤吉郎秀吉」と署名しているのが最初である(「坪内文書」〔三鬼清一郎『豊臣秀吉文書目録』名古屋大学文学部国史学研究室、1989年。〕)。 その後、戦功を重ねて信長の有力部将として台頭する。木下から羽柴に改めたことを示す最初の例は、元亀4年(1573年)7月20日付で大山崎惣中に縄の供出を求めた書状(「離宮八幡宮文書」〔)であり「羽柴藤吉郎秀吉」と署名している。『信長公記』〔奥野高広・岩沢愿彦校注 『信長公記』 角川書店〈角川文庫〉、1969年。〕では、元亀3年7月24日条に近江一向一揆掃討の指揮官として「木下藤吉郎」の名を記し、同年8月条では虎御前山に建設された砦の「定番(じょうばん)」として「羽柴藤吉郎」の名を記す。 「羽柴」は、織田家の重臣である丹羽長秀と柴田勝家にあやかり、丹羽の「羽」と柴田の「柴」を1字ずつもらってつけたという話は有名であるが、史料的な根拠は何もない。 井沢元彦は「柴田と丹羽の当時の織田家内の立場からしても、2人を同格としてそれぞれから一字ずつもらうというのは、あり得ない。これは『羽柴=端柴、つまり自分は柴の木の切れ端のような取るに足らない存在です』ということを主張し、自身の出世への周囲の嫉妬を避けるための改名ではないか」と指摘している〔井沢元彦 『逆説の日本史 11 戦国乱世編』小学館 2004年。〕。 信長が本能寺の変で横死し、秀吉が代わって天下人の座に就くと、秀吉の発給する文書はその地位の向上にともなって必然的に尊大化・薄礼化し、あるいは奉書にとって代わられ、直状も単に「秀吉」とのみ署名したもの、花押のみ署したもの、印判のみ押したものなどで占められ、羽柴の名字の使用例は見られなくなる。天正13年(1585年)10月13日付の遠藤基信宛書状に「羽柴筑前守」と署名したのが「羽柴」の名字の最後の使用例である(山鹿素行『武家事紀巻第31』〔)。黒田基樹は、羽柴の名字は単に使用されなくなっただけで、秀吉がさらに別の名字に改めたということではなく、秀吉・秀頼の父子も終生「羽柴」を名字としていたと主張している〔黒田基樹 「慶長期大名の氏姓と官位」 『日本史研究』414号 日本史研究会、1997年。〕。 一方で、秀吉は近親者以外への羽柴の名字の授与を開始する。その最初の例は、天正10年(1582年)10月の堀秀政(「神照寺文書」〔〔村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」 『駒沢史学』49号 駒沢史学会、1996年(のちに『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年に所収)。〕)である。その後、旧主信長の遺族、織田家において秀吉の同僚であった大名、あるいは天下統一の過程で臣従させた国主クラスの大身大名などを中心に、羽柴名字の授与が大規模に行われている。血縁・地縁に頼った秩序編成が難しい秀吉が、自らの名字を大名たちに授与し、擬制的な一家を構成することで政権メンバーを秩序づけることを図ったものである。 羽柴の名字は一定程度既成事実として定着し、秀吉の死後も島津家久・細川忠興・池田輝政・福島正則など一部の大名がその使用を続けている。しかし、慶長20年(1616年)5月、大坂の役で秀吉の後継者秀頼が死亡し、羽柴宗家が消滅したことにより、羽柴の名字を用いる家系は姿を消した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羽柴氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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