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小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した〔「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。〕。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなしたが、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。 == 生涯 == === 豊臣家の公達 === 天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助。 天正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗った。天正16年(1588年)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸では内大臣・織田信雄以下6大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされた。またこの際、秀吉の代理で天皇への誓いを受け取っている〔矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」(『国史学』196号、2008年)〕。 天正17年(1589年)、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられた。天正19年(1591年)、豊臣姓が確認され〔村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、34頁。〕、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれた。 諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者とも見られていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小早川秀秋」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kobayakawa Hideaki 」があります。 スポンサード リンク
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