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羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1919年 - 1996年1月28日)は、日本の柔道家(9段)。 ==経歴== 1932年、慶應義塾幼稚舎6年生の時に柔道を始める。3年後には飯塚国三郎9段(のち10段)に師事し、同年5月に初段、11月に2段に昇段する。 1942年、慶應義塾大学を卒業し東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)に入社。この時柔道は5段位であった。翌年、太平洋戦争のため陸軍に応召。 戦後、1947年の1月の6段に昇段すると、同年11月9日に講道館主催で開かれた東日本柔道対県大会で団体・個人とも優勝を果たす。柔道が公開競技となった翌48年の第3回国民体育大会では選抜32名出場の個人戦が11月2日に開催され、東京代表として抜擢された羽鳥は決勝で同じく東京代表の平野時男に敗れたものの準優勝という成績を収めた。1949年10月29日に大阪市福島公園の仮設国技館で開催された第1回全日本東西対抗柔道大会では東軍の大将とし出場した(結果は、羽鳥が西軍3将松本安市の大外刈に敗れ、西軍に優勝を譲った)。 全日本選手権には1948年の第1回大会から51年に第4回大会まで東京代表として4年連続で出場し、49年には柔道王・木村政彦7段と接戦を繰り広げたほか、51年大会では、足を痛め調子を崩したために準決勝戦で醍醐敏郎6段に敗れはしたものの、3位に入賞している。48年と50年はそれぞれ香月光雄6段と松本安市6段に敗れている(段位はいずれも当時)。 現役を退いた後は後進の指導に当たり、1952年7段、1967年8段、1992年には9段に昇段し赤帯を許される。1996年1月28日、心不全のため逝去。享年76。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羽鳥輝久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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