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耳塚(みみづか)もしくは鼻塚(はなづか)とは戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚である。文禄・慶長の役における朝鮮および明兵の戦死者の鼻を弔ったものが有名。これ以外にも日本全国に耳塚と呼ばれるものは多数存在するが、実際に耳や鼻が葬られているものは確認されていない。 == 京都市の耳塚 == 京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵〔歴史学者の藤木久志は「老若・男女・僧俗の区別なく撫で斬りにせよ」との秀吉の上意があり非戦闘員も含むと主張している。(藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫、2005、p.442-p.445)〕の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。() 古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。昭和44年(1969年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。 この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。 周囲の石柵は大正4年5月に歌舞伎役者をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」と伝わる。なお塚前の焼香台・石段も彼の発起によって築造されたものである。 当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耳塚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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