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耶律突欲(やりつ とつよく、899年 - 936年)は、キタイ(契丹)帝国の皇太子、東丹国の国王。図欲とも呼ばれる。漢風の姓名は劉倍(または耶律倍)。キタイ帝国初代皇帝・耶律阿保機(太祖)の長男。第2代皇帝太宗の兄。第3代皇帝世宗の父。母は月里朶(ユリド、述律皇后)。モンゴル帝国の中書令の耶律楚材は彼の9世の後裔である。諡号は譲国皇帝、廟号は義宗。 == 略歴 == 899年、耶律阿保機の長男として生まれる。916年、キタイ帝国成立とともに皇太子に立太子された。父の華北遠征などに従い、タングートや沙陀族の李存勗(後唐)らと戦う。926年には同母次弟の耶律堯骨らとともに渤海へ攻め入り、これを滅ぼした。キタイは渤海国を改めて東丹国とし、国王に突欲をすえ、阿保機を「天皇帝」、ユリド皇后を「地皇后」、突欲を「人皇王」と称することとなった。しかし同年、阿保機が急死すると、母ユリドと不和だった突欲は東丹国王のままとどめられ、翌年弟の堯骨がキタイ皇帝位を継ぐようユリドから指名された(太宗)。 兄の突欲を警戒した太宗は、東丹国の政府首脳ともども突欲を遼陽へ集住させ、監視下に置く。これを知った沙陀族(後唐)の李嗣源は、突欲に亡命を促した。突欲はこれに応じ930年、山東半島の登州に渡り、亡命する。喜んだ李嗣源は、突欲を「東丹慕華」の名をもって歓待し、さらに国姓の李と賛華の名を与え、滑州節度使に任命した。 だが、933年、李嗣源が死亡し、養子の李従珂らが権力を握ると、後唐国内は混乱に陥った。突欲は過去に亡命してきたにもかかわらず、同母次弟の耶律堯骨(太宗・劉徳光)に後唐への介入を促し、太宗もまたそれに応じて、石敬瑭(後晋を建国)を支援し、後唐を滅亡させた。この経緯に恨みを持った李従珂が放った刺客により、突欲は暗殺された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耶律突欲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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