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耶律図魯窘(やりつ とろきん、生年不詳 - 947年)は、遼(契丹)の軍人。字は阿魯隠。 == 経歴 == 粛祖(耶律耨里思)の子の耶律洽慎の孫にあたる。天顕11年(936年)、太宗が石敬瑭を助けて後唐を攻撃したとき、図魯窘の父の敵魯古は五院夷離菫として従軍して陣没したため、太宗は夷離菫の職を図魯窘に継がせた。会同元年(938年)、図魯窘は北院大王となり、太宗の側近にあって国事の議論に参加し、太宗の意に合わせて下問に答えた。 9年(946年)、後晋に対する攻撃に従軍したとき、後晋の杜重威が10万あまりの兵を擁して滹沱橋で抗戦したため、契丹軍は数日奮戦して進むことができなかった。太宗が今後の方策を問うと、諸将は兵馬の疲労をみて撤退を求めた。そこに図魯窘が顔色を変えて進み出て、「いま撤退すれば敵に利を与え、南京を失陥することにすらなりましょう。敵は歩兵で味方は騎兵なので、そもそもこの戦いに負ける心配はありません。漢人の足力が弱まっているところ、我らの精鋭の軽騎を選んで敵の糧道を絶てば、事はすみましょう」と言った。太宗は喜んで図魯窘の策を採り、後晋軍の糧道を絶って攻勢に出ると、はたして杜重威は降伏してきた。大同元年(947年)春、図魯窘は軍中で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耶律図魯窘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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