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耶律抹只(やりつ まつし、生没年不詳)は、遼(契丹)の軍人。耶律末只とも書かれる。字は留隠。 == 経歴 == 仲父隋国王耶律釈魯の後裔。景宗が即位すると、林牙となった。保寧年間、枢密副使に転じた。 乾亨元年(979年)春、北宋が北漢を攻撃すると、南府宰相耶律沙が都統となって北漢の救援におもむき、抹只がその下で監軍をつとめた。白馬嶺の敗戦のため、抹只は身ひとつで逃走した。宋軍が勝利に乗じて燕雲十六州の奪回に乗り出すと、抹只は奚族の兵を率いて耶律休哥を補佐し、宋軍を撃破した。この功績により以前の敗戦の罪は許された。この年の冬、抹只は都統韓匡嗣の下で北宋を攻撃し、満城で戦って敗れた。敗戦にありながら抹只の部隊は整然と撤退して帰還した。南海軍節度使として出向した。乾亨2年(980年)、再び枢密副使となった。 統和元年(983年)4月、侍中を兼ね、東京留守となった。10月、聖宗は高麗への遠征を企図して、東京で抹只の率いるところの兵馬を閲兵した。2年(984年)8月、女直の朮不直や賽里ら8つの部族が契丹に帰順するのを仲介した。4年(986年)、耶律斜軫らとともに女直を攻撃して勝利した。北宋の曹彬・米信らの軍の侵入を受けると、抹只は軍を率いて南京析津府におもむき、防備を固めた。抹只は耶律休哥とともに涿県の東で宋軍を迎え撃ち、勝利した。6年(988年)7月、大同軍節度使に転じた。この年、霜害のために食糧が不作だったので、民衆が税を納めるさいに例年は一斗の粟を5銭に換算して納めていたものを6銭で換算して納めさせるよう上奏した。 統和末年、死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耶律抹只」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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