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サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:''Massacre de la Saint-Barthélemy'')は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(''St. Bartholomew's Day Massacre'')とも表記される。 宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。 国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(有力な王位継承権を持つブルボン家当主)と王妹マルグリット(国王シャルル9世の妹)が結婚することになった。1572年8月17日に結婚式が行われ、ユグノーの中心人物であるコリニー提督はじめ多くのユグノー貴族が結婚を祝うためパリに集まっていた。8月22日にコリニーが狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノーは憤り、国王に真相究明を求めた〔。 2日後、サン・バルテルミの祝日である8月24日、カトリック強硬派のギーズ公の兵がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し〔Pettegree(2002),pp.159-160〕、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる(後述#犠牲者数節参照)。ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。だが、内乱はこれでは終わらず、ユグノーはを唱えてより強硬に抵抗するようになり〔『サン・バルテルミーの虐殺 』(日本大百科全書、小学館)〕、穏健派カトリックも独自勢力であるポリティーク派を形成するようになった。 2年後にシャルル9世が死去し、1576年にはナバラ王アンリが逃走してプロテスタントに再改宗した〔。その後、内乱は新国王アンリ3世(シャルル9世の弟)、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリの三つどもえのいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥る。ギーズ公とアンリ3世が相次いで暗殺された後の1589年にナバラ王アンリが王位を継承する(アンリ4世)。この宗教戦争は1598年にアンリ4世がプロテスタントに一定の制限はあるが信仰の自由を容認したナントの勅令を発するまで続いた〔〔『ナントの王令 』(日本大百科全書、小学館)〕。 == 背景 == === フランスの改革派、ユグノー === 1517年にマルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』を契機に神聖ローマ帝国領域(現在のドイツ)で宗教改革運動が始まった。帝国はプロテスタント諸侯とカトリック諸侯とに分裂して対立した。抗争はシュマルカルデン戦争(1546年~1547年)に勝利した皇帝カール5世のカトリック陣営優勢に終わるかに見られた。だが、1552年にフランスと結んだザクセン選帝侯モーリッツが反乱を起こして皇帝を襲撃し、カール5世は大敗を喫してプロテスタント信仰(ルター派のみ)を容認するアウクスブルクの和議(1555年)を余儀なくされる〔『宗教改革 』(日本大百科全書、小学館)〕。 スペイン・ハプスブルク家の領地であったネーデルラントにもプロテスタントが浸透しており、スペイン王フェリペ2世はアルバ公を派遣して弾圧による恐怖政治で応じたが、1568年に北部ネーデルラント7州が反乱を起こしオランダ独立戦争(八十年戦争)が勃発する〔『オランダ独立戦争 』(日本大百科全書、小学館)〕。 フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる〔柴田他(1996),pp.99-101.〕。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ〔1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている。〕、1550年代にはカルヴァンの指導の下で組織化が図られるようになった。 国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した〔柴田他(1996),p.103,pp.107-108.〕。さらに後継者アンリ2世は1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した〔柴田他(1996),p.108.〕。 これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした〔森田(2010),p.81.〕。プロテスタントは血統親王であるブルボン家のナバラ王アントワーヌを盟主に戴き、後により信仰に熱心なその弟のコンデ公ルイが中心人物となった〔リヴェ(1968),p.13;柴田他(1996),p.129.〕。 1559年に馬上槍試合での事故によりアンリ2世が死去すると、15歳のフランソワ2世が即位し、王妃メアリー・スチュアート(スコットランド女王メアリー)の伯父であるギーズ公フランソワとロレーヌ枢機卿が実権を掌握した〔柴田他(1996),p.129.〕。熱烈なカトリックであるギーズ家はプロテスタント迫害を行い、これに反発した不平貴族がギーズ家打倒を図るが、逆襲を受け多数のプロテスタント貴族が処刑されてしまう(アンボワーズの陰謀)〔森田(2010),p.84.〕。母后カトリーヌ・ド・メディシスに召喚され、宮廷に出仕したコンデ公も逮捕された。 1560年に僅か1年半の在位でフランソワ2世が病死して幼少のシャルル9世が即位すると、母后カトリーヌは本来は摂政となるべき第一血統親王のナバラ王アントワーヌと取引を行い、ナバラ王の辞退によりカトリーヌが摂政となり、代わりにコンデ公は釈放された〔リヴェ(1968),p.15.〕。実権を握ったカトリーヌは大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用してプロテスタントとの融和政策を採る〔森田(2010),pp.84-85.〕。カトリーヌはカトリックとプロテスタントの代表者による宗教会談(ポワシー会談)を開き、宗教融和を図るが、彼女の楽観的な見通しに反して、両者の信仰上の相違は大きく決裂に終わった〔森田(2010),pp.85-86.〕。 ユグノー(''huguenot'')というフランス・プロテスタントの呼称はカトリックとプロテスタントとの論争の際に生まれ、ドイツ語の''Eidgenosse''(アイドゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である〔〔『ユグノー 』(日本大百科全書、小学館)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サン・バルテルミの虐殺」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 St. Bartholomew's Day massacre 」があります。 スポンサード リンク
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