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聖光院(しょうこういん、元和6年(1620年) - 元禄4年7月8日(1691年8月1日))は、江戸時代前期の女性。陸奥会津藩主保科正之の継室。於万の方ともいわれる。京都上賀茂神社の神官藤木弘之の娘。 == 略歴 == 元は正之の姉東福門院に女官として仕えていたが、正之の側室となり、正室の菊姫亡き後は継室に上げられ、4男5女を産んだ。寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が亡くなると29日に落飾、聖光院と称した。 正之の死により、聖光院所生の正経が跡を継ぐと、京都から甥の藤木弘基を呼び寄せて正経の近習に取り立て、姪で弘基の妹を保科正興に嫁がせ家老に昇進させた。しかし、天和元年(1681年)に正経が子供の無いまま亡くなり、異母弟の正容が藩主になると両名は遠ざけられた。 正経の死後、聖光院は京都に帰って隠遁し亡き人の菩提を弔いたいと希望した。しかし、幕府の許可が難しいとみた家臣は聖光院の娘を娶っていた稲葉正往に説得を頼んで思いとどまらせ、代わりに江戸郊外の大崎に屋敷を購入した。聖光院は三田屋敷から大崎屋敷に移る際、これまでのような儀礼や交際は無用と言い渡し、死ぬまでの8年間を過ごした。元禄4年(1691年)、大崎の屋敷で死去した。享年72。 墓所は東京都港区三田の実相寺。法名は聖光院殿穏誉寂清安大姉。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「聖光院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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