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聖王(せいおう、? - 554年7月)は、百済の第26代の王(在位:523年 - 554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠。先王が523年5月に死去したことにより、王位についた。『日本書紀』には聖明王または明王とあり、武寧王の死去の翌年524年正月に即位したとある。『梁書』には明の名で現れる。 ==治世== 梁からは524年に〈持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王〉に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。しかし529年には高句麗の安臧王の親征に勝てず、2000人の死者を出した。538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移し、「南扶余」と国号を改めた。新羅との連携についても、南方の伽耶諸国の領有を争って不安定なものとなり、新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図った。 541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した(いわゆる任那復興会議)〔『日本書紀』巻十九・欽明天皇二年(541年)夏四月条〕。百済のヤマト王権に対する要請は、百済主導の伽耶諸国の連合体制を承認することと、新羅に対抗するための援軍の派遣とであったが、欽明天皇から武具や援軍が送られたのは547年以降のこととなった。この頃には百済は再び新羅と連合(羅済同盟)して高句麗に当たるようになっており、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年10月に王女を新羅に通婚させているが、554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。在位32年。諡されて聖王といった。 梁に朝貢して毛詩博士、涅槃経の教義、工匠・絵師などを下賜されるなど、中国文物の受容に努め、国内では仏教を保護して大通寺を建立した。また、梁との交易によって手に入れた扶南国(カンボジア)の文物を倭国に対して送った〔『日本書紀』巻十九・欽明天皇四年(543年)秋九月条〕ことも伝えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「聖王 (百済)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Seong of Baekje 」があります。 スポンサード リンク
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