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龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前の戦国大名。 “五州二島の太守”〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)337頁〕の称号を好んで用い、肥前の熊ともいわれた。仏門にいた時期は中納言円月坊、還俗後初めは胤信(たねのぶ)を名乗る。本姓は藤原氏を称した。大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で敗死した。 == 生涯 == === 家督相続 === 享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男として肥前佐嘉水ヶ江城東館天神屋敷で生まれる〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)104頁〕。幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。 天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺される。隆信は曽祖父の家兼に連れられて筑後の蒲池氏の下へ脱出した。翌天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その一年後に家兼は高齢と病のために死去した。このとき、家兼は隆信の器量をすでに見抜いており、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残している〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)108頁〕。 こうして隆信(還俗後のこの時期は胤信と名乗っていた〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)109頁〕)は水ヶ江龍造寺氏の家督を継いだ〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)109頁〕。その後は龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547年)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。 天文17年(1548年)、龍造寺胤栄が亡くなったため、隆信はその未亡人を娶り〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)115頁〕、本家の家督も継承することとなる。しかし隆信の家督継承に不満を持つ家臣たち(綾部鎮幸など)も少なくなく、隆信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、翌天文19年(1550年)には義隆から山城守を敷奏され、さらに実名の一字を与えられて7月1日に隆胤と改め、ついで同月19日に隆信と名乗った〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)119頁〕〔『系図纂要』〕。隆信は大内氏の力を背景に家臣たちの不満を抑え込む。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「龍造寺隆信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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