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肥後別当定慶(ひごべっとうじょうけい、元暦元年(1184年)? - 没年不詳(建長8年(1256年)以後))は、鎌倉時代の仏師。慶派、康慶の弟子といわれるが、運慶の次男康運が改名したという見方が有力である(後述)。 == 概要 == 鎌倉時代には、「定慶」という仏師が複数存在した。本項で取り上げる定慶は、奈良・興福寺東金堂の維摩居士像(国宝)を造ったことで知られる「定慶」とは別人であり、区別するために「肥後別当定慶」、「肥後定慶」などと呼ばれている。 定慶の代表作として知られるものに、鞍馬寺(京都)の聖観音像と、大報恩寺(京都)の六観音像6躯があり、鎌倉時代に流行した「宋風」の仏像の代表例として知られる。これらの像は、生身の女性を思わせる現実的な面相表現、細身の体型、複雑な髪型、煩雑で装飾的な衣文などに特色があり、日本の仏像彫刻史上、まれに見る個性の強い作風を示している。 石龕寺(兵庫)の金剛力士像の銘記に、仁治3年(1242年)、59歳であったことが記されており、生年は逆算して元暦元年(1184年)ということになる。石龕寺金剛力士像の銘に「大仏師南方派肥後法橋」とあることから、奈良(南方)の仏師であることがわかり、横蔵寺(岐阜)金剛力士像の銘に「坪坂住大仏師法眼大和尚位」とあることから、晩年は壺阪(奈良県高市郡高取町)に住み、法眼の僧位を持っていたことが知られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「肥後別当定慶」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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