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淝水の戦い(ひすいのたたかい)は、中国の五胡十六国時代に、華北の前秦軍と江南の東晋軍とが383年に淝水(現在の安徽省寿県の東南)で激突した戦い。淝はさんずいに肥。 == 概要 == === 事前の経緯 === 華北の覇権を握っていた後趙が瓦解した後、氐族を主とする集団が建てた前秦が台頭し、第3代皇帝苻堅が漢人宰相王猛の助けを借りて370年11月に親征して前燕を滅ぼし、371年4月に苻雅と楊安を派遣して前仇池を服属させ、376年8月には姚萇と梁煕らを派遣して前涼を滅ぼし、12月には苻洛と鄧羌を派遣して代を滅ぼし、遼東から中原、涼州などを獲得して華北統一を完成させた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P92〕。この時が前秦の全盛期であり、社会は安定・繁栄し、人口は2300万前後に達し、朝鮮半島の高句麗や新羅からは朝貢も行なわれた〔。 苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないということで、自分達の本拠である関中に東にいた鮮卑を移し、逆に東へ氐族を移すということを行った。また王猛のように氐族以外からも人材を積極的に登用し、枢要な地位に就けていた。苻堅はこのような処置により、領内に於ける氐・鮮卑・匈奴・漢族の民族を融和させ、来るべき南北統一のための戦い、すなわち対東晋戦への前段階にしているつもりであった。しかし、王猛はこのやり方で民族対立が収められたとは思えず、漢人の心情では東晋を本来の宗主国とあがめる者も多く、対東晋戦は危険であるとの見方を持っており、たびたび苻堅に対して東晋戦を行わないようにとの進言を行った。 華北統一の1年前の375年に王猛は「晋を攻めないように〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P93〕〔『晋書』苻堅載記下附王猛伝〕。鮮卑・羌(前燕から降った慕容垂と羌の姚萇のこと)は仇敵だからいずれ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように」と遺言して死去した。また王猛は国家の重要事として東晋とは友好を結ぶようにも提言していた〔〔。しかし苻堅はこれに従わなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒ水の戦い」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Fei River 」があります。 スポンサード リンク
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