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肥田 琢司(ひだ たくじ、1889年(明治22年)2月25日〔衆議院『第五十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1928年、27頁。〕 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、日本の政治家、広島県選出の衆議院議員。当選4回(第16、19、20、21回総選挙)。従四位勲三等。父は広島県議会議長の肥田辰之助、弟は広島県議会議員の肥田広司。大甥に複数の東証上場企業で大株主になっている実業家の肥田篤(広司の実孫)がいる〔会社四季報2015年新春号〕。 == 来歴・人物 == 広島県出身。大正時代に板垣退助が相談役として参加した立憲青年自由党を率いた首脳であり、原敬と犬養毅の両首相を後援する政友会院外団の中核として一世を風靡した政治家〔日韓交流 陰で支えた男 - 産経新聞ニュースサービス〕。 昭和初期からは代議士となり父・辰之助と弟・広司と共に父子兄弟連携して政治活動を行い、広島県政で望月派と肥田派の二大派閥として台頭していた〔「世襲」代議士の研究〕。 1920年(大正9年)、肥田は原の私邸に呼ばれ、肥田の出身である広島五区からの出馬を要請された。しかし、これに望月圭介が反対したため肥田は原に出馬を断念する旨を伝えたところ、原は非常に憤慨し望月を説諭しておくので是非とも出馬して欲しいと切望したが〔原敬と立憲政友会〕、肥田は代わりに広島ガス社長の松浦泰次郎を立候補させることにして辞退した。1928年(昭和3年)、立憲政友会公認で中選挙区制時代の旧広島県第2区から第16回衆議院議員総選挙に立候補して初当選〔第16回衆議院議員選挙 - 広島2区 〕。以後総選挙に通算当選4回。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙〔第17回衆議院議員選挙 - 広島2区 〕と1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙では落選したものの〔第18回衆議院議員選挙 - 広島2区 〕、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙から連続3回当選した〔第19回衆議院議員選挙 - 広島2区 〕。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に属し、1940年(昭和15年)の聖戦貫徹議員連盟結成に参加〔 大阪毎日新聞 1940.6.20-1940.6.27〕、政務調査会で副会長を務めた〔 大阪毎日新聞 1940.12.26〕。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦候補として当選、衆議院逓信委員長に就任した〔第21回衆議院議員選挙 - 広島2区 〕。1943年(昭和18年)、衆議院運輸委員長に就任。戦前は政友会正統派内でも久原に近かったことから戦後は肥田と同じく政友会正統派久原系の岡田忠彦・津雲国利・西村茂生・東条貞らとともに院内会派・無所属倶楽部の結成に参加した〔『戦時議会史』、538-539頁。〕。1944年(昭和19年)、対米戦争に反対していた肥田は議院役員会で打倒東條内閣を宣言し、武知勇記、西方利馬、馬場元治らの連判状を集めて圧力をかけていき東條内閣を総辞職に追い込んだ。1946年(昭和21年)から1952年(昭和27年)までGHQによる公職追放となり、1954年(昭和29年)に鳩山を総裁として結成された日本民主党で相談役を務め、1956年(昭和31年)には自民党広島県支部連合会を結成し初代会長に就任した〔政界追想〕。 晩年まで政財界の重鎮として君臨していた有力者として知られ〔、歴代総理大臣を初めとした政治家はもちろんのこと、全日空社長の岡崎嘉平太、NEC社長の梶井剛、富士重工社長の横田信夫などの財界人とも親交が深く、各界の著名人や皇室の御意見番であり日本の黒幕と呼ばれた思想家の安岡正篤とは旧知の仲であった〔浩然録 肥田琢司追遠集〕。TVドラマ化(淡島千景、関口宏、十朱幸代が出演〔 ポーラ名作劇場〕)もされた小説火山列島(曽野綾子著)では肥田家が石田家という仮名で登場している〔火山列島(朝日文庫)296-307頁〕。 元麻布に肥田御殿と呼ばれた約600坪の本邸を構え、肥田一族の保養所として利用された軽井沢と熱海の各別荘には住み込みの管理人が常駐していた〔政界追想〕。愛妻家でありながらも子宝に恵まれず実子がいない為、弟妹の子や孫を非常に可愛がり孫達からは祖父同様に「おじいちゃま」と呼ばれていた〔浩然録 肥田琢司追遠集〕。1963年(昭和38年)、勲三等旭日中綬章を受章。肥田の功績を称えて広島県港町公園に建てられた石碑が、2011年(平成23年)の改修時に国道31号線沿いへ移設された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「肥田琢司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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