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脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男で、新田義貞の弟。 == 生涯 == 上野国新田郡脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字「脇屋」を称した。 元弘3年(1333年)5月、兄義貞とともに新田荘にて挙兵して鎌倉を攻める。執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、諸将の論功行賞によって、同年8月5日、正五位下に叙位。左衛門佐に任官。 また、同年、一時期、駿河国守護にもなる。以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任。また、このころ設置された武者所の構成員となり、同所五番となる。 その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した。延元元年/建武3年(1336年)、刑部卿に転任。延元3年/建武5年(1338年)に義貞が不慮の戦死を遂げると越前国の宮方の指揮を引き継いだ。 兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍に敗れて越前から退いた。 延元4年/暦応2年(1339年)9月には従四位下に昇叙する。 興国3年/康永元年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡り、伊予の土居氏・得能氏を指導し、一時は勢力をふるったが、伊予国府で突如発病し、そのまま病没した。享年38。墓所は倉吉打吹の大蓮寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「脇屋義助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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