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膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。 == 歴史 == 元和7年(1621年)膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う〔「滋賀県百科事典」 P439「膳所焼」の項(滋賀県百科事典刊行会 大和書房 1984年)〕。また、膳所藩領国内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている〔。 菅沼定芳は、膳所藩主となった後の寛永6年(1629年)、膳所相模川の左岸に御用窯を築いた。定芳は本阿弥光悦・小堀遠州・松花堂昭乗との交友に影響を受け茶器を焼いたと言われている〔。 菅沼定芳移封後、寛永11年(1634年)新たに石川忠総が膳所藩主となった。忠総の実父大久保忠隣は、小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人であり〔「落款花押大辞典」(小田栄一・古賀健蔵監修 淡交社 1982年)〕〔「古田織部 人と茶と芸術」(桑田忠親著 徳間書店 1968年)〕、忠総自身も小堀遠州と親交が深かった〔「小堀遠州の書状 1巻」(小堀宗慶 東京堂出版 2002年)〕ことから遠州の指導を受け茶器焼き物に力を注いだ〔「テクノクラート小堀遠州 近江が生んだ才能」(太田浩司 サンライズ出版 2002年)〕。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された〔。しかし、膳所焼の隆盛は忠総治世時に留まり、慶安3年12月(1651年2月)忠総が死去し、慶安4年4月(1651年6月)後継の石川憲之が伊勢亀山藩に移封すると、膳所焼は徐々に衰退していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「膳所焼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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