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臧 宮(ぞう きゅう、? - 58年)は後漢の武将。字は君翁(くんおう)、潁川郡郟(河南省郟県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の14位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 ==略歴== 若くして県の亭長となり、後に賓客を率いて下江の兵の中に入り校尉となった。下江の兵は劉縯の説得により漢兵と連合し、臧宮は劉秀に従いて征戦した。河北に至ると、偏将軍と為った。劉秀に従いて、郡賊を破り、しばしば敵陣を落す功があった。 建武1年(25年)、光武帝は即位し、臧宮を侍中、騎都尉と為した。建武2年(26年)、列侯に封じられた。 建武3年(27年)、光武帝の鄧奉親征に従いて、突騎を率いて祭遵と共に、更始帝の将左防、韋顔を涅陽、酈に破った。岑彭に従いて鄧奉を小長安に追った。光武帝は、岑彭をして傅俊、臧宮、劉宏らを率いさせ時の群雄の1人秦豊を撃たせた。臧宮は、兵を率いて江夏を攻略し、代郷、鍾武、竹里を撃って皆な下した〔『後漢書』では江夏攻略を建武3年のことと記しているが、建武2年、明年、建武3年と記載されているので、建武4年の誤りと思われる。〕。輔威将軍を拝した。 建武7年(31年)、臧宮は梁都、済陰を撃ちて平げた。 建武11年(35年)春、公孫述討伐のため、臧宮は岑彭、大司馬 呉漢、劉隆、劉歆(劉植の従兄弟)と共に兵を発し、輸送のための船頭を徴発し、荊門に集結する。荊門は征南大将軍岑彭に任せられた故、臧宮も岑彭に従った。荊門を破り、垂鵲山に至り、遂には江州に至った。岑彭は巴郡を下し、降兵5万を臧宮に預け、平曲に上らせ、自らは電撃戦を敢行する。臧宮は平曲に守り、遂には公孫述の将延岑を挫く〔降卒5万と、兵士は多く食料は少なく、裏切りが生じかねず、郡邑もその動静を窺っている状況で、偶々光武帝が岑彭に送った馬700匹があったのでこれを徴発し、深夜に兵を進めて多く旗幟を上げ、山に登って太鼓を打ちと、逆に多勢に見せ掛け、遂には、延岑の軍を浮き足立たせ、潰走させた。〕。岑彭は公孫述の刺客に倒れ、全軍は呉漢に引き継がれた。臧宮が平陽郷に至れば、公孫述の将王元は降り、更に進軍し、綿竹を落し、涪城を破り、公孫述の弟の公孫恢を斬り、更に攻めて繁、郫を降した。遂には呉漢と共に公孫述を滅ぼした。光武帝は蜀が定まれば、臧宮を広漢太守と為した。 建武15年(39年)、召されて、京師に帰り、列侯を持って朝請を奉じ、定めて朗陵侯に封ぜられた。建武18年(42年)、太中大夫を拝した。 建武19年(43年)、妖しげな巫(かんなぎ)の弟子たちが妖言を用いて集合し、原武城に入り、自ら将軍と号した。光武帝は、これに対して臧宮らを遣わしてこれを囲ませ、攻めるも落ちない。ここで臧宮は、光武帝より東海王劉陽(後の明帝)の策〔囲みがきついので逃れられない。よって四方の囲みの一方を開いて、わざと逃がせば、散り散りになった兵を捕えるのは一亭長でも可能である。〕を受け、遂に賊を平らげた。 永平1年(58年)、卒す。謚は愍侯。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「臧宮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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