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臨津江の戦い(りんしんこうのたたかい、朝鮮読みで臨津江はイムジンガン)は、文禄元年5月18日(1592年6月27日)、臨津江で戦われた文禄の役初期の戦闘の一つである。反攻を企てた朝鮮軍の襲撃を、日本軍の加藤清正がほぼ単独で撃退した。 ==背景 == 日本軍の快進撃を前に、朝鮮国王宣祖は、4月29日、夜逃げ同然で漢城府を放棄して北の開城に向かった。途中、歴史的に重要な防御拠点であった臨津江では、南岸の一部の家屋を焼き払い、船は尽く北岸に集めて、日本軍が渡河のための資材を得られないようにしてから逃げている。 首都防衛の要である漢江を任されていた都元帥〔金命元は、僅か千名を率いて北岸の濟月亭(京城府普光町)にいたが、5月2日、日本軍が数万の軍勢であることを見て戦意喪失。防戦自体を諦めて火砲を川に遺棄させ、軍を棄てて臨津に逃れた。副元帥申恪も山中に走って楊州へ逃げた。漢城府の防衛を任されていた留都大将李陽元〔もとは右議政。〕は、これを聞いて都を放棄して楊州に撤退した。無政府状態となった首都は朝鮮乱民が放火掠奪に奔り、焼失した宮殿から煙の立ち上る中で、戦わずして日本軍に無血占領された。 5月4日、首都陥落を聞いた朝鮮国王は慌てて平壌にむけて行幸を再開した。朝鮮朝廷はしばらくはまだ恐慌状態で、日本軍の追撃を非常に恐れていたが、日本軍は都から10日以上も動かず後続を待っていたので、5月8日に平壌に到着した朝鮮国王は、一息ついて、防御態勢を立て直す余裕ができた。 国王は(募兵を続けていたという理由で)金命元が軍を放棄した罪を許し、臨津江の固守を命じた。京畿道と黄海道で徴した兵が到着したのでこれを送ることになった。職を交代した元咸鏡北道兵使申硈が来たので、彼を防禦使に任じ、同時に副将(助防将)として劉克良も派遣された。金命元は臨津で落伍者を集めていたが、李、李薦、邊璣(助防将)が約千名の兵を率いて合流した。この軍に京畿・黄海からの増援が加わり、諸将20名、兵は7,000名ほどになった〔なおこの中には白衣従軍を命じられていた11名の元高官も含まれていた。〕。 12日、金命元は(船で江の南に出撃し)碧蹄などに伏兵を置いて遊撃して、日本軍をいくらか斬って自信を深めた。また、楊州から戻った李陽元が、李鎰、申恪、金友皐ら諸将10名と兵5,000名〔と率いて、大灘〔臨津江上流にある支流漢灘川の町。〕に駐屯していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「臨津江の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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