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自動車製造事業法(じどうしゃせいぞうじぎょうほう)は、国防整備と産業発展を目的に自動車製造業の営業許可制などを定めていた日本の法律である。1930年代後半から行われた一連の統制経済立法のひとつ。軍用として重要な自動車の国産化推進のため、外国資本を排除することが主たる狙いだった。 == 成立の経緯 == 日本の国産ガソリン自動車は1907年(明治40年)に初めて製造されたが性能が悪く、日本で利用されていたガソリン自動車はほとんどが輸入車か外国資本との合弁会社のものであった。1929年(昭和4年)に発生した大恐慌の影響により各国は産業統制政策を取るようになり、日本も1931年(昭和6年)7月公布の重要産業統制法など国家による産業保護政策にカジを切っていた。 満州事変での戦訓などから、軍用自動車の重要性は日本陸軍でも強く認識されるようになっていた。日本陸軍は、国家総力戦を想定した軍用自動車の戦時量産体制確立を求め、1934年(昭和9年)初頭から商工省へと新たな保護立法を要望しはじめた。同年6月には「内地自動車工業確立方策」という陸軍案が作成され、許可制導入が提言された〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、58頁。〕。 当時の日本の自動車産業では、アメリカ資本の影響が強かった。1925年(大正14年)に日本フォードが設立され、1927年(昭和2年)には日本ゼネラル・モータース(日本GM)も操業開始、大量生産方式によるノックダウン生産で急激に日本市場を席巻した。性能的にもフォードトラックや日本GMのシボレートラックは優秀で、軍用自動車としても熱河作戦などで活躍していた。日本政府も古くは1918年(大正7年)に軍用自動車補助法を制定して国産軍用車の製造促進を図っており、1931年(昭和6年)には商工省が中級トラック・バスを対象に「標準車」試作を民間委託した結果、九四式六輪自動貨車のようなそれなりの質の製品は生まれたものの、そもそも商工省標準車はフォードやGMの主力である大衆車との競合は避けた車種であり〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、68頁。〕、製造台数では遠く及ばなかった。むしろアメリカ資本との提携の動きが盛んで、1933年(昭和8年)には日産自動車と日本GMの合併計画が浮上していた。 商工省は、当初は外国系企業との提携による技術導入を支持して陸軍と対立したが、1935年(昭和10年)4月に工務局長へ岸信介・工政課長に小金義照が就任すると態度を一変させた〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、62-63頁。〕。岸と小金は、総合産業である自動車製造をてこに、産業全体の振興を図る意図だった。岸は、ナチス・ドイツ流の統制経済による産業合理化が有効だと考えていた〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、72-74頁。〕。 1935年(昭和10年)8月9日、岡田啓介内閣は「自動車工業法要綱」を閣議決定、事業許可制の導入や日本フォードの工場拡張阻止といった方針を明確にした〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、115頁。〕。これに対してアメリカ政府は工場所有を含む製造業や販売業などについて内国民待遇を保障した日米通商航海条約1条違反であるとの抗議を行ったが、日本側は単なる産業保護政策ではなく国防目的であるので同条約に違反しないと反論した〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、148-150頁。〕。1936年1月には、日産コンツェルン総帥である鮎川義介個人への圧力など陸軍の強い干渉により、日産自動車と日本GMの合併計画が破棄に追い込まれた〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、91-92頁。〕。 1936年(昭和11年)5月19日に自動車製造事業法案は国会に上程され、10日間のスピード審議を経て5月29日に成立、即日公布された〔NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、172頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「自動車製造事業法」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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