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自治省(じちしょう)は、1960年7月1日から2001年1月5日まで存在した、地方行財政・消防・選挙制度等を所管した日本の中央省庁。長は自治大臣。 ==歴史== 地方自治制度を所掌した。旧内務省の直系を自認した最小の省(定員360名+外局160名)。英語名称として名乗った「Ministry of Home Affairs」は他国の内務省の名称のひとつである。 1947年(昭和22年)12月31日に「内務省及び内務省の機構に関する勅令等を廃止する法律(昭和22年12月26日法律第238号)」により内務省(最後の内務大臣は木村小左衞門)が廃され、これに先行して同年12月10日に設置されていた全国選挙管理委員会のほか、翌1948年(昭和23年)1月7日に地方財政委員会(委員長は国務大臣(初代委員長は竹田儀一)をもって充てられた)が、また同年3月7日に、1月1日に内閣総理大臣の管理に属する機関として臨時(存続期間は90日以内と定められていた。)に設置されていた内事局(長官は林敬三(1929年(昭和4年)内務省入省))を廃して、総理庁官房自治課と、国家公安委員会の下に国家地方警察本部及び国家消防庁が相次いで設置され、旧内務省の機構は細分化された。 1949年(昭和24年)6月1日に、地方財政委員会と総理庁官房自治課を統合し、旧内務省地方局の流れを汲む地方自治庁(初代長官は木村小左衞門)が総理府の外局に置かれた。1950年(昭和25年)5月30日再び地方財政委員会と地方自治庁に分かれたものの、1953年(昭和28年)8月1日、全国選挙管理委員会、地方財政委員会及び地方自治庁を統合し、国務大臣(自治庁長官)を長とする自治庁が、地方自治を包括的に所管する官庁として設置された。 旧内務官僚は、地方自治庁の地位を高めて、いずれは官選知事制度(地方長官任命制度)を復活させることを夢見ており、1955年(昭和30年)の秋に、東京大学の就職説明会に訪れた自治庁の中堅幹部が「近く官選知事が復活するから、諸君に来てもらいたい」と熱心に勧誘していたのを、秦郁彦が目撃している〔秦郁彦 『官僚の研究 不滅のパワー・1868-1983』 講談社 p.40〕。その甲斐あってか、自治庁は大蔵省や通産省と並んで、東京大学法学部の学生から人気が高い官庁であった。 1956年(昭和31年)、自治庁と建設省などを統合して、内政省を設置するという行政審議会の答申により、第3次鳩山一郎内閣によって内政省設置法案が第24回国会に提出された。自治庁にいた旧内務官僚たちは、当時、行政管理庁長官であった河野一郎を味方につけて、「内政省は旧内務省の復活」であるとして猛反発した学者グループを強引にねじ伏せることに成功。その後、旧内務官僚たちは省庁の垣根を越えて、すさまじい根回しを各所で行い、法案提出までこぎつけていた。自治庁の幹部たちの狙いは、旧内務省の失地回復と、建設省が握っている膨大な額の公共事業費が目当てであり、金の威力で地方自治体への統制力強化を強めるという深謀遠慮があった。また、それに付随して、官選知事制度(地方長官任命制度)の復活を実現したいという〝夢よもう一度〟の野心もひそんでいた〔毎日新聞社編 『官僚にっぽん』 毎日新聞社 p.36〕。 ところが、自治庁と同じ旧内務省系官庁である建設省が猛反発した。建設省は事務官と技官の二派に分かれており、技官は旧内務省土木局時代に冷遇されて、昇進しても課長止まりで、局長にはなれなかった。それが、戦後になって日本がGHQの占領統治下に置かれると状況が一変し、自分たちを冷遇していた内務省は解体・廃止され、新設された建設省では、局長ポストの半分が技官となり、次官ポストも事務官と技官が交代で就任するという不文律までできていた。建設省の技官にしてみれば、旧内務省の直系である自治庁との統合は、また事務官に頭をおさえられることと同義であり、受け入れられるものではなかったのである。建設省の官僚は、技官の人数が事務官を圧倒しており、技官に乗せられた馬場元治建設大臣は、閣議で決定していた内政省設置法案に「職を賭しても絶対反対する」と表明。建設省は、林野・港湾・水道・水力発電・運輸などの諸行政を統合する国土省設置法案を構想し、自治庁への対抗心をむき出しにしていた〔。 自治庁側は、内務省出身の国会議員に働きかけをおこない、法案作成の責任官庁である行政管理庁のお株を奪うかたちで、内政省設置法案の成立に総力を挙げており、行政管理庁の総務課員をカン詰めにして作文をしたという。この際、内政省設置法案に反対していたはずの建設省の課長が密かに自治庁に出向いて、法案作成に協力していたという逸話がある。建設省でも旧内務官僚の事務官は、内政省設置法案に賛成しており、建設大臣や技官を裏切るかたちで、自治庁に内通していた〔。 内政省設置法案は自民党の多数と社会党右派の支持を受けていたが、建設省の技官は国土省設置法案を国会議員に働きかけ、社会党左派のみならず、自民党の一部からも支持を受けていた。内政省設置法案は、政局を不安定なものとし、鳩山内閣の政権運営にも影響を与えたため、内閣自ら撤回することになった。その後、1958年(昭和33年)に、内政省設置法案は第1次岸内閣 (改造)により廃案となっている〔佐藤俊一 『日本広域行政の研究―理論・歴史・実態』 成文堂 p.163〕。 内政省は実現しなかったものの、自治庁の省昇格の声が高まり、「内務省」「地方省」などの案が出され、1960年(昭和35年)7月1日に、国家消防庁を統合して自治省(初代自治大臣は石原幹市郎)に昇格し、悲願の省昇格を果たした。自治省の設立には、社会党が「翼賛体制の中枢であった内務省の復活を画策している」として反対しており、実現の見通しが立っていなかったが、当時、国会は60年安保闘争で大混乱に陥っており、世間の目が安保改定に集中していることが幸いして、自治省設置法が成立した。元内務官僚の荻田保(地方財務協会会長や公営企業金融公庫総裁を歴任)は「内務省の役人だった者としては、〝庁〟ではあまりにも情けなかった。〝省〟への昇格は地方局出身者全員の悲願だった。その先頭に立ったのが、鈴木俊一、小林与三次、奥野誠亮さんら、俗に〝自治OB三羽烏〟といわれる人々でした。しかも、幸運だったことは、昭和35年という年。その年は安保騒動で国が大揺れに揺れたときで、そのドサクサにまぎれて自治省成立の法案を通過させたんです。あれが平常時だったら通過しただろうか・・・・・・」と、述懐している〔神一行 『自治官僚』 講談社 p.124〕。 1963年(昭和38年)、臨時行政調査会(第一次臨調)第1専門部会第1班の報告書に、自治省と警察庁を統合して、自治公安省または内政省を設置し、国家公安委員会を外局(行政委員会)とし、自治公安大臣または内政大臣が国家公安委員会委員長を兼務することが盛り込まれた。これには自治省と警察庁にいる旧内務官僚や、旧内務省出身の国会議員(30名以上)の尽力があったが、第一次臨調の旗振り役であった池田勇人首相が病に倒れたことや、旧内務省の復活を恐れた大蔵省や通産省の反発によって頓挫した〔『中央公論』第96巻 第7号 中央公論社 p.180~182〕〔田原総一朗 『警察官僚の時代』 講談社文庫 p.106~107〕。 2001年(平成13年)1月6日、中央省庁再編(中央省庁等改革基本法(平成10年6月12日法律第103号))により、その機能は総務省に統合され、総務省内の3つの局(自治行政局、自治財政局、自治税務局)と外局(消防庁)に再編された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「自治省」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ministry of Home Affairs (Japan) 」があります。 スポンサード リンク
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