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祭文(さいぶん)とは、中国における漢文の文体(文語文)の一種。祭時において神霊に対し誦される文章で、死者を葬送するもののほか、雨乞いや除災、求福を目的とする文がある〔興膳(1988)p.121〕。道教における祭文は特に「青詞」と呼ばれる〔明の嘉靖帝によって登用された内閣大学士の厳嵩は青詞を得意としたことから「青詞宰相」と呼ばれた。〕。 == 概要 == 祭文は、古くは漢王朝の時代にさかのぼる。雨乞い、招福、攘災を目的とするものもあったが、最も重要なのは死者を哀悼する祭文で、多くの場合、生前に故人と親交をむすんだ人によって誦された〔。祭文は「維」の字を以て始めることが習慣になっているが、この「維」はただの助詞である。散文体・韻文体・対句体いずれも存し、韻文体には四言、六言、雑言、騒体、儷体などがある。ただし、清代の詩人袁枚の『祭妹文』は駢文となっている。なお、清代の姚鼐が編纂した『古文辞類纂』では祭文は「哀祭類」に分類されている〔『古文辞類纂』では、中国のあらゆる文章(古文)を、論辨類、序跋類、奏議類、書説類、贈序類、詔令類、伝状類、碑誌類、雑記類、箴銘類、頌賛類、辞賦類、哀祭類の13種に分類している。〕。 南北朝時代の梁(南朝)の劉勰が著した5世紀末の文学理論書『文心雕龍』にも、祭文のことが説明されている。祭文は、多数の人びとによって書かれることもあり、明代の馮琦が亡くなったときには門人や友人が数多く祭文をつくった〔荘天全や溫純、王錫爵、于慎行などによって祭文が書かれた。それぞれ『荘学士集』卷六「祭馮老師大宗伯」、『溫恭毅公文集』卷十六「祭大宗伯馮用韞公文」、『王文肅公文草』卷十二「祭馮琢庵文」、『穀城山館文集』卷三十一「故大宗伯琢吾馮公誄有敘」に収載されている。〕。また、安史の乱のとき、唐の顔泉明は、史思明によって殺された弟の顔季明の遺骸を常山(山西省恒山)に持参し、宗族であり書家としても著名な蒲州刺史顔真卿とともに父顔杲卿・弟季明の鎮魂を行った。この時の祭文の草稿が、真卿によって書かれた書道作品のなかでも特に名高い「祭姪文稿」である。 祭文は、『文心雕龍』で説くように、故人が生きていたときの行いや言葉をたたえ、哀傷の意をこめてつくられるのが普通で、文中「嗚呼哀哉」(ああかなしいかな)の句が繰り返されることも多い〔。古文の復興運動でも知られる唐の韓愈の祭文は、中国文学史上、特によく知られている〔。上述の『古文辞類纂』でも哀辞・祭文においては、韓愈と北宋の王安石のみがこれを代表するとしている〔和田(1990)pp.90-93〕。韓愈は25篇あまりの祭文を書いたが、とりわけ張署という友人にあてた「祭河南張員外文」は古来名文として名高い〔。韓愈はまた、潮州刺史に赴任した際、鰐の被害から住民や家畜を救うため祭文を書いて鰐を祭っている〔林(2001)pp.223-236〕。北宋の文学者欧陽脩や南宋の儒学者朱熹も祭文を書いており、後者は『朱子学大系』中の『朱子文集』に収載されている。南北朝時代の沈約もまた友人の死に際し、祭文を詠んでいる。南朝宋の文学者謝恵連は君主の彭城王劉義康が治める東府城の堀の中から古い墓が発見され、その改葬のために祭文を作ったが、その文章はたいへん美しいことで知られる。 名文家として知られた南朝梁の劉孝綽の妹劉令嫺もまた文才に長け、彼女は尚書僕射の地位にあった徐勉の子息徐悱に嫁いだが、夫が亡くなるとその祭文を書き、その見事な出来映えに徐勉は我が子の哀文をつくるのをやめたというエピソードがのこる。また、1917年(民国6年)以降、胡適は口語体にもとづく白話文運動を提唱したことで知られるが、彼の書いた「先母行述」(亡き母の行いと言葉)は一篇の文語文であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「祭文 (漢文)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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