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興亜院(こうあいん)は、昭和13年(1938年)12月16日に設立された日本の国家機関の一つ。日中戦争によって中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えたため、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮するために第1次近衛内閣で設けられた〔『大平正芳』 38頁。〕。 ==概要== 長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された(副総裁は陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣・大蔵大臣の兼任であった)。現地に連絡機関として華北・蒙彊・華中・廈門に「連絡部」が設けられた〔。華北連絡部には出張所が置かれ、後に大東亜省に改編されたときには青島総領事館となった。占領地では軍政を行うため興亜院の幹部も主に陸海軍の将校で占められた〔『大平正芳』 39頁。〕。興亜院の設置は外務省の対中外交に関する権限の縮小につながり、宇垣一成外相の辞任の一因となった。昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。 後に内閣総理大臣となる大平正芳は興亜院の蒙疆連絡部や経済部で勤務していたことがある〔『大平正芳』 38-42頁。〕。1939年6月から1940年10月まで、大平正芳は蒙疆連絡部経済課主任、課長を歴任した。その任官中、興亜院が主導する阿片政策をその重用な職務のひとつとして遂行した、という最新の研究成果がある〔倪志敏「大平正芳と阿片問題」『龍谷大学経済学論集』第49巻第1号(2009年9月)106頁〕。大平内閣の閣僚でもあった大来佐武郎、伊東正義、佐々木義武もまた官僚時代、興亜院勤務で大陸に渡っていた。このため、自民党内からは「興亜院内閣」と陰口を叩かれた〔『大平正芳』 38・42頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「興亜院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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