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興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、静岡県沼津市にあった日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 == 歴史 == 正確な築城年は不明だが文明年間(1469年 - 1487年)には築城されていたと推定される。 文献上の初出は、『北条五代記』における長享元年(1487年)である。この年、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍によりこの城を与えられた(盛時は、この後再び室町幕府官僚として京を中心に活動したので、常在はしていない)。その後盛時は、幕府管領・細川政元の足利義澄の将軍擁立と連動して伊豆に侵入し、伊豆国を治めていた堀越公方の子・足利茶々丸を将軍・足利義澄の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移った。 この城のある駿東郡の地は、今川・武田・北条各氏が奪い合った。天文5年(1536年)、当時北条氏と敵対関係にあった武田信虎と今川義元が和睦したことに不満をもった北条氏綱が駿東郡に侵出、北条氏の支配下に入った。それに対し天文14年(1545年)今川義元は、武田信玄、上杉憲政らと連合し、駿河と武蔵で同時に北条氏に対して軍事行動を起こす(河越城の戦い、第2次河東一乱)。北条氏の駿河の拠点・長久保城を包囲して攻撃し、武田氏仲介の和睦によって駿東郡を取り戻した。その後、天文20年(1551年)、北条氏康は駿河へ侵入し今川義元から興国寺城を一時奪取するも、義元は再び奪い返している。永禄11年(1568年)、今川氏が滅亡し甲相駿三国同盟が破棄されると、武田氏の駿河侵攻に対抗して北条氏政・北条氏邦も駿河に侵出、葛山城などと共に興国寺城を奪回している。元亀2年(1571年)に甲相同盟が再び成立すると、武田氏に引き渡され天正10年(1582年)まで支配下におかれた。 武田氏滅亡後に領有した徳川家康は、竹谷松平家の松平清宗を2,000貫で配したが、天正18年(1590年)に家康が関東へ入封されると豊臣氏の家臣・中村一氏が在城した。関ヶ原の戦い後は天野康景が1万石で入封し興国寺藩が立藩するも、康景は領内の問題で責めを負いその裁定に不満を募らせて出奔。そのため興国寺藩は改易となり、慶長12年(1607年)3月に廃城となった。 平成7年(1995年)3月17日、国の史跡に指定された。沼津市根古屋にあり、現在復元工事が行われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「興国寺城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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