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興安軍(こうあんぐん)とは、満州国内のモンゴル族居住地域である興安省(興安四省)、熱河省を含む地域(現在の内モンゴル自治区の東部に相当。)を管轄した満州国軍の部隊の総称。兵員はモンゴル人によって構成されており、騎兵を主力部隊としていた。 == 概要 == 1932年4月に満州国軍が成立すると、関東軍は内蒙古自治軍(満州事変の際にモンゴル人で編成された義勇軍)を満州国軍に編入する方針を決定した。4月22日、興安軍の軍事顧問に斎藤恭平少佐、金川耕作大尉、生田吉五郎大尉、本間誠大尉が任命された。本間顧問は、内蒙古自治軍の改編をおこなうとともに興安東分省・南分省・北分省 でモンゴル人青年を選抜して軍事訓練を施した〔森(2009年)、115頁。〕。 5月、興安南分省に内蒙古自治軍を改編した興安南警備軍(司令官:バトマラプタン少将、参謀長:カンジュルジャブ)が編成された。1933年4月、興安北分省に興安北警備軍(司令官:ウルジン・ガルマーエフ少将)が成立し、興安東分省に興安東警備軍(司令官代理:チョルバートル上校)が成立した。熱河作戦後、熱河省のシラムレン以北が興安西分省として分離した際に、察東警備軍(司令官:李守信、親満の義勇軍)からモンゴル人編制の第4支隊を満州国軍に編入させ興安西警備軍(司令官代理:烏古廷上校)とした〔。1938年3月にこれら4つの警備軍を統括して興安軍管区(司令官:バトマラプタン)が成立し〔牧南(2004年)、132頁。〕、のちに第9軍管区 (通遼)および第10軍管区(ハイラル)に改編された。 満州国軍の軍官(士官)の教育・訓練は、1932年9月から中央陸軍訓練処で行われていたが、言語・習慣などの違う漢人とモンゴル人を一緒に訓練することは困難であった。1934年7月1日、軍政部はモンゴル人軍官を専門に養成するため、興安軍官学校(校長:バトマラプタン兼任、顧問:下永憲次少佐)を鄭家屯の仮校舎に開設した。第一期生は72名が入校し 、翌年8月1日、学校は王爺廟の本校舎に移転した。興安軍官学校では、モンゴル民族の復興を趣旨とし、当初はモンゴル人唯一の高等教育機関として軍人の養成だけでなく、将来モンゴル人の指導者となる人材を養成することを目的として教育にあたっていた。1939年10月、陸軍興安学校に改称された〔森(2009年)、116頁。〕〔小澤(1976年)、46-47頁。〕。 満洲国軍刊行委員会編『満洲国軍』(蘭星会)によれば、モンゴル兵の能力として、広大で目印のない草原でも道に迷うことはなく、夜間でも目的地に着くことができること、戦闘に勇敢であること、馬術に優れ、手綱を持たずに射撃したり長時間走り続けられるということが挙げられている〔牧南(2004年)、180頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「興安軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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