|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 興 : [こう] 【名詞】 1. interest 2. entertainment 3. pleasure ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi)
興徳王(こうとくおう、生年不詳 - 836年)は新羅の第42代の王(在位 : 826年 – 836年)であり、姓は金、諱は秀宗〔『三国史記』新羅本紀・憲徳王紀においては分注で秀升とも記されている。秀宗()と秀升()とでは音は異なる。〕、のちに景徽(けいき)と改名した〔『三国遺事』王暦では諱は景暉(けいき)と記される。景徽・景暉は同音()。〕。父は38代元聖王の元太子の金仁謙(昭聖王により恵忠大王と追封)、母は角干(1等官)の金神述の娘の淑貞夫人(昭聖王により聖穆太后と追封)であり、39代昭聖王・41代憲徳王の同母弟である。王妃は昭聖王の娘の章和夫人〔『三国遺事』王暦では、昌花夫人とする。章和()・昌花()は音通する。〕。826年10月、先代の憲徳王が死去すると、副君の位にあった秀宗が即位した。 == 即位まで == 819年2月、現職の上大等の金崇斌が死去したことにより、伊飡(2等官)の位にあった金秀宗が後任の上大等となり、822年1月には副君とされて月池宮に住まわされた。『三国史記』では副君の名称はほかには見られないが、月池典・月池嶽典という官庁名が職官志の東宮官の下部組織として見られることから、副君は王太子の別称であり、秀宗(興徳王)が王太子に立てられたものと見られている〔井上訳注1980 p.356. 注54,55.〕。また、『旧唐書』や『新唐書』の新羅伝には、金景徽(興徳王)は金彦昇(憲徳王)の子であると記している〔『旧唐書』巻二百十一・新羅伝「(太和)五年(831年)、金彦升卒。以嗣子金景徽為開府儀同三司・検校太尉・使侍節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王。」〕〔『新唐書』巻二百三十六・新羅伝「長慶・宝暦間(821年 - 827年)、再遣使者来朝、留宿衛。彦升死、子景徽立。」〕。しかし『三国史記』新羅本紀・憲徳王紀に拠れば、憲徳王には金憲章・金張廉・金昕らの王子がいたことが記されており、また、822年3月以降で忠恭角干(憲徳王の弟)の娘の貞嬌を太子の妃に迎え入れたことを記しており、興徳王の王妃の伝とは異なっていることから、興徳王が憲徳王の太子とされたとすることとは相容れない。結局のところ、憲徳王の同母弟であった興徳王が、王子らを差し置いて王位を継いだことについて、確実な事情は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「興徳王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|