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興福寺奏状(こうふくじそうじょう)とは、元久2年(1205年)、奈良興福寺の衆徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書。法然弾劾の上奏文というべき性格を有していた〔家永(1982)pp.128-129〕。全1巻。『大日本仏教全書』に収載されている〔圭室「興福寺奏状」『日本歴史大事典』(1979)p.418〕。 == 概要 == 興福寺奏状は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)10月、南都興福寺(奈良県奈良市)の寺僧らが法然坊源空の唱導する専修念仏の教えを糺し、その禁止を求めて朝廷に上奏した文書である。起草者は、法相宗中興の祖といわれる笠置寺(京都府笠置町)の解脱坊貞慶(解脱上人)〔貞慶は藤原氏一族の出身で、後白河法皇の側近で院の近臣として活躍し、平治の乱の源義朝挙兵の際に殺された藤原通憲(信西)の孫にあたる。なお、興福寺は法相宗の大本山であると同時に、藤原氏の氏寺でもあった。貞慶は、平安時代末に興福寺で修行した実範による戒律の系譜(南京律)のなかで重要な位置を占めた。大隅(1989)p.208ほか〕であり、法然の教義(浄土宗)に対する9か条の批判より始まっている〔。この奏状は、承元元年(1207年)の法然ひきいる吉水教団に対する弾圧(承元の法難)の一因となった〔石井(1979)pp.317-323〕。また、同奏状中の「八宗同心の訴訟」という文言が、鎌倉仏教および日本仏教史研究家の田村圓澄によって注目され、日本の古代仏教に関して「八宗体制論」という理論的枠組みを生む契機となった〔佐藤(1991)pp.91-92〕。 ただし、奏状を構成する本文と副文(内容に関しては後述)の関しては次のような疑問も出されている。本来、副状とは本文内容を説明するために過去の文書などを引用するべき部分であるのに、興福寺奏状の副状の内容構成がそうした性格を有していない。また、副状を付けた場合でも、本文の末尾には日付を記入すべきであるのにそれが欠けているなど、当時の奏状の書式とは異なっており、副状とされている部分は同時期に出された別の文書の挿入であり、それが貞慶以外の者の手による可能性もあるというものである。その説に従えば、貞慶が執筆したと判断できるのは「誠惶誠恐謹言」までのいわゆる本文の部分に限定されることになる〔森(2013)pp.242-245〕。 なお、興福寺奏状の出された前年の元文元年(1204年)には、比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の衆徒が天台座主真性に対し、専修念仏の禁止を要求しており(延暦寺奏状)〔、これに対して法然側も延暦寺にも弟子らとともに署名した怠状(七箇条制誡)を送付している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「興福寺奏状」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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