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舞の海 秀平(まいのうみ しゅうへい、1968年2月17日 - )は、日本のスポーツキャスター、タレント、NHK大相撲解説者、出羽海部屋所属の元大相撲力士。有限会社舞の海カンパニー(本人の個人事務所)所属。本名は長尾 秀平(ながお しゅうへい)、愛称はシュウヘイ。2013年現在の体格は身長169cm、体重85kg。血液型B型、左利き。 関取時代の体格は身長171cm、体重101kg。得意手は、左差し、下手投げ、内無双、切り返し。最高位は東小結。力士の大型化著しい平成期において、昭和中期の力士と比較してもなお小柄なその体格だった。関取時代は「平成の牛若丸」、「技のデパート」(旭鷲山入幕後は「技のデパート・本店」)とも呼ばれた。 == 経歴 == 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町出身。鰺ヶ沢第一中学校、青森県立木造高等学校、日本大学経済学部でいずれも相撲部に所属。 山形県の高校教員採用試験(社会科)に合格していたが、大学在学時の同郷の後輩である成田晴樹〔1986年、1987年の高校横綱〕の急死を契機として一転大相撲入りを志す。入門を相談した際に母の猛反対に遭い、結局母とは絶縁することでようやく入門を許された。しかし、身長が当時169cmで日本相撲協会の新弟子検査基準に達しなかったため、目溢しを期待して当時角界のNo.2であった9代出羽海が師匠を務める出羽海部屋を選び、1度不合格を経験した後、手術でシリコーンを頭に埋め身長を高くして合格を掴んだ。〔講演『可能性への挑戦』 2001/10/30 舞の海 秀平 東海村文化センター〕 学生時代に残した全日本相撲選手権大会ベスト32の実績が認められて幕下付出(60枚目)資格を取得、1990年5月場所に本名である『長尾』の四股名で初土俵を踏んだ。この場所で6勝1敗の好成績を収め、13日目の取組で唯一6戦全勝だった栃天晃が星違いの琴の若に敗れたため、1敗力士8人による幕下優勝決定戦に出場した(準決勝で、優勝した林に敗れた)。 十両に昇進し、四股名を郷里の舞戸町と部屋の出羽海に因んだ舞の海へと改名した後は、多彩な技で大型力士を倒すその取り口から「技のデパート」、「平成の牛若丸」とも呼ばれた。「猫騙し」の活用に始まり、「後退する立合い」、「くるくる舞の海」と言われた目回し作戦、1991年11月場所の曙戦でみせた「三所攻め」、1992年1月場所の貴闘力戦でみせた「居反り・襷反り」(技は成功せず)、当時の二子山理事長に「八艘跳び」と呼ばれた1992年1月場所・北勝鬨戦での立合いジャンプ作戦など、四十八手を駆使した取り口を見せ、1994年9月場所には小結に昇進。また通算では5度の技能賞を獲得している。 しかし1996年7月場所、小錦との取組に勝った際、体重差約200kgの小錦が舞の海の左膝へ倒れ込み、左膝内側側副靭帯損傷の大怪我を負い、同場所及び翌9月場所を休場し十両へ陥落した。1997年5月場所に幕内復帰を果たしたものの、下位に停滞し、1998年3月場所を最後に十両へ再陥落。それでも十両で相撲を取り続けたものの、1999年11月場所には十両10枚目まで落ちていた。13日目の水戸泉戦で敗れた際に左足首靭帯を損傷、左ふくらはぎも肉離れを起こし14日目を休場、6勝8敗と窮地に追い込まれる。千秋楽(11月21日)は無理を押して出場するが、若光翔に敗れて幕下陥落が濃厚となり、現役を引退した。 年寄名跡に丁度空きが無かったこともあり、引退後は日本相撲協会には残らずタレントに転身。NHK大相撲中継の専属解説のほか、スポーツコメンテーターとしてフジテレビ系「FNNスーパーニュース」のスポーツキャスターなども担当。また旅番組のレポーター、俳優活動、各種講演〔「私の相撲人生」「私と大相撲」「可能性への挑戦」などがテーマ〕も行っている。2000年、2001年には帝京大学の非常勤講師も務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「舞の海秀平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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