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舩原 三郎(ふなはら さぶろう)は、鎌倉時代後期の御家人。 弘安4年(1281年)8月10日付の肥前国守護北条時定書下(松浦山代文書)に2度目の元寇の弘安の役(1281年)の合戦の時の参加御家人6名の名があり、「舩原三郎」の名が残されている。 弘安の役で活躍した、薩摩の御家人・島津長久や比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄、舩原三郎らが奮戦し活躍した〔『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)〕〔『薩摩比志島文書』島津長久證状「當國御家人比志嶋五郎次郎時範令申□戦之間事、去年六月廿九日五郎次郎幷親類河田右衛門尉盛資相共、罷乗長久之乗船、渡壹岐嶋候事實正候、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)〕。舩原三郎はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている〔『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、 弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)〕。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「舩原三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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