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船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日 - 1981年8月5日)は、日本の小説家。 == 来歴 == 北海道札幌市生まれ〔川西政明による。ほか『日本近代文学大事典第3巻』(野口冨士男執筆)など。ただし戸籍謄本には「新潟県岩船郡館腰村出生」とある(川西著による)。〕。養父は新聞記者・森笛川。札幌二中(現北海道札幌西高等学校)に在学中、組合教会に通った。1932年、早稲田高等学院に入学するも、1学期で退学。1934年に明治大学予科に入学し、1937年に商学部の1年のときに退学する。1937年に北海タイムス(のちに北海道新聞に統合)の社会部学芸記者となる。1939年にふたたび上京し、四社連合に勤める。1940年、寒川光太郎・椎名麟三・野口富士男・佐々木翠らの『創作』(のち『新創作』)の同人に加わり、「私の絵本」を執筆。「私の絵本」は、『文芸』の第2回同人雑誌推薦作候補となった。同年、青年芸術派を結成、『青年芸術派叢書』の1巻として長編小説『衣裳』を書き下ろし出版する。さらには第13回、14回と2回続けて作品が芥川賞候補となるなど早くも文壇でも一目置かれる存在へとなっていく。この間、1944年に佐々木翠(本名・坂本春子)と結婚している。 戦後は文芸雑誌「序曲」の同人となり、『笛』『半獣神』『魔術師』など実存主義的傾向の強い作品を発表し、椎名・野間宏・埴谷雄高らとともに第一次戦後派の一人と目されるが、1948年にヒロポン中毒となり、やがて執筆活動に支障をきたすまでの状態となり、文壇からは半ば見放された状態となる。ヒロポン依存から回復後は推理小説や時代小説を手がけるなど執筆ジャンルの幅を広げていくも、長らく汚名返上出来ずに雌伏の時を過ごす。1967年に地方紙に連載した歴史ロマン『石狩平野』がベストセラーとなり、小説新潮賞を受賞し、文壇の表舞台へも復活を果たした。その後も『お登勢』『見知らぬ橋』『蘆火野』『放浪家族』、遺作となった『茜いろの坂』まで、新聞小説を主に置きながら精力的に作品を発表し、また多くの作品がテレビドラマ・舞台化されるなど、中間小説の大家として活躍し、国民ロマンの巨匠の異名を取った。 1981年8月5日没。享年67。おしどり夫婦として知られた妻の春子も同日の夜に狭心症のため急死したことも、船山の死と共に報じられ話題となった。 戒名は、寂照院天真談応居士。墓は、東京都中野区上高田の竜興禅寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「船山馨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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